嫉妬と恨みによって鬼になった女を表す能面。上半分は悲しみ、下半分は怒りを表す。

鳥山石燕 「今昔画図続百鬼 般若」 1779年 / パブリックドメイン 出典
般若とはどんな妖怪か
般若は、能で使われる面のひとつです。嫉妬と恨みによって鬼になった女を表します。
額に金泥を塗った二本の長い角。金色の目。大きく開いた口には、金具をはめた歯と二対の牙が並びます。髪は乱れ、眉根は寄せられています。
この面がすぐれているのは、上半分と下半分で表情が違うことです。眉を寄せた上半分は悲しみを、開いた口の下半分は激しい怒りを表します。怒りと悲しみを同時に抱えた心が、一つの面に彫り込まれています。
舞台では、この作りが効きます。祈祷する僧と鬼女が対決する「イノリ」の場面では、鬼女は祈りに押されて顔を伏せ、また振り切るように顔を上げる。顔を伏せれば悲しげな目元が、上げれば猛々しい口元が見えます。
なお、般若は面の名。これは面の名前です。ここを取り違えたまま語られることが多いので、先に断っておきます。
般若の漢字表記と読み方
読みは「はんにゃ」です。仏教では智慧を意味する言葉で、般若心経の般若と同じ字です。
なぜ鬼女の面にこの名がついたのか、定説はありません。 般若坊という僧が作ったからという説が広く言われますが、能楽研究者の野上豊一郎はこれを否定しました。般若坊より前の面打ち師の作と伝わる面があり、技法に大きな差が見られないためです。
野上は、もともと「鬼女の面」などと説明的に呼ばれていたものに、後から特称が与えられたと推測しています。その際に般若が選ばれた理由として、能『葵上』で怨霊が「やらやら恐ろしの般若声や」と言う場面があることを挙げています。
能楽師の二世金剛巌は、智慧を悪用するとこんな顔になるという読み方がいちばん面白いと述べています。
般若の面(はんにゃのめん)
正式な呼び方。
般若面(はんにゃめん)
同じものの略した呼び方。
般若(はんにゃ)
さらに略した呼び方。日常ではこれが多い。
中成(ちゅうなり)
生成と本成のあいだの段階として般若を呼ぶときの言い方。
般若の姿と特徴
般若の面の作りは、次の要素で決まっています。
角 … 額に二本。金泥を塗る。
目 … 金色。瞳の部分だけ穴が開いている。
口 … 大きく開き、金具をはめた上下の歯と二対の牙。
髪 … 左右に分けた髪が乱れ、凄まじさを出す。
眉 … 本来の位置より上に描いた作り眉。その下で眉根を寄せる。
肌の色によって白般若・赤般若・黒般若と呼び分けられ、役柄で使い分けます。『葵上』の六条御息所は貴族なので品格のある白般若、山奥に住む『黒塚』の鬼女には動物的な黒般若、『道成寺』にはその中間の赤般若がふさわしいとされます。
装束は、鬼女を表す鱗文様の擦箔に、丸紋を尽くした縫箔を合わせるのが多い形です。
角の生えかけた段階を生成、より蛇に近い段階を蛇・真蛇と呼びます。怒りの深さで面を替える仕組みになっています。
般若の伝承物語
三鬼女 ─ 般若をかける三つの曲
般若面を用いる能のうち、『葵上』『道成寺』『黒塚』の三曲は、俗に三鬼女と呼ばれます。
『葵上』は『源氏物語』の葵の巻を題材とします。六条御息所の生霊が、光源氏の正妻・葵上への恨みから鬼になる。登場のときは「泥眼」という女面をかけ、途中で舞台後方に行って般若に掛け替えます。
『道成寺』は紀伊国の道成寺が舞台です。修行僧に恋した女が大蛇となり、鐘に隠れた僧を鐘ごと焼き殺した──という因縁のある寺に、女の怨霊が白拍子の姿で現れます。落ちてきた鐘のなかに飛び込み、暗い鐘の内側で面を般若に替える。能のなかでも屈指の見せ場です。
『黒塚』は陸奥の安達ヶ原が舞台で、宿を貸した女が鬼女と化して山伏を追います。
三曲とも、女が鬼になる瞬間を面の掛け替えで見せます。
生成・般若・真蛇 ─ 怒りの段階
能は、女の怒りの深さによって面を使い分けます。
泥眼(でいがん) … 感情が高ぶり、人を超え始めた段階。白眼と歯先が金色に塗られます。『鉄輪』『葵上』で用います。
橋姫 … 目の下が赤く塗られ、泥眼より髪が乱れ、目の金色が目立ちます。凄惨な復讐心を表します。
生成(なまなり) … 額の両側に角が生えかけた段階。夫への未練がまだ残る心理を表し、『鉄輪』の専用面です。
般若 … 角が生えきった鬼女。生成に対して中成と呼ばれます。
蛇・真蛇 … 口から舌が覗き、面によっては耳がない。人よりも蛇に近い顔で、本成と呼ばれます。
怒りが段階で彫り分けられている。 ここに、般若を単なる怖い面として見ない読み方の鍵があります。
怒りが蛇の姿をとる
般若の先にある面が蛇であることには、理由があります。
仏教では古くから、悟りの妨げとなる人の身を毒蛇にたとえてきました。そのうえで女性は、男性と違って悟りに達しられない存在とみなされることがあり、しばしば鬼女や毒蛇になぞらえられました。愛欲が満たされないときには復讐のために人を殺める、という筋書きです。
『道成寺』の女が大蛇になるのも、『鉄輪』の女が鬼になるのも、この考え方の上に立っています。
つまり般若の面は、当時の人が女の情念をどう見ていたかをそのまま形にしたものです。面が美しいほど、その見方の厳しさもはっきり見えてきます。
八世観世銕之亟は、般若とは本来解脱した状態を指す言葉なのに、実際は執心の角が生えたものを般若と呼ぶ、皮肉といえば皮肉だ、と述べています。
般若の伝承地域
般若の面には、訪ねられる伝承地がありません。
般若は妖怪ではなく能面です。特定の土地に現れたという言い伝えを持ちません。
そのかわり、実物を見られる場所があります。全国の能楽堂で『葵上』『道成寺』『黒塚』が上演されるときに、舞台の上で使われます。国立能楽堂をはじめとする能楽堂の公演情報で、演目から探すことができます。
面そのものは各流儀や個人の所蔵が多く、公開は展覧会などに限られます。所蔵先を確かめずに「ここで見られる」と書くことはしません。
面が用いられる曲の舞台となった土地であれば、『道成寺』の道成寺(和歌山県日高郡日高川町)、『黒塚』の安達ヶ原(福島県二本松市)が実在します。ただしこれらは曲の舞台にあたります。
天音山 道成寺(てんおんざん どうじょうじ)
般若の面が使われる能『道成寺』の舞台
天音山 道成寺の所在地:和歌山県日高郡日高川町鐘巻1738
大宝元年(701年)の創建で、和歌山県で最も古い寺です。
安珍清姫の伝説の舞台として知られます。
面そのものがここにあるわけではありません。 能『道成寺』の曲の舞台にあたる場所です。
般若の正体と考えられているもの
般若の面が何を表しているかについては、はっきりした答えがあります。女性の嫉妬と恨みです。ここに議論はありません。
議論があるのは、なぜ般若という名になったかです。
一つめは、般若坊という面打ち師に由来するという説です。もっとも広く語られますが、能楽研究者の野上豊一郎は否定しました。般若坊は文明年間(1469年〜1487年)ごろの人と思われるのに、それ以前の面打ち師の作と伝わる同種の面があり、技法に大きな差がないためです。
二つめは、能『葵上』の台詞に由来するという説です。怨霊が般若心経を聞いて「やらやら恐ろしの般若声や」と言う場面があり、この役の面を般若と呼ぶようになったというものです。野上はこちらに近い見方を取っています。
三つめは、仏教語そのものから来たという説です。智慧を意味する般若にちなみ、赤鶴という面打ち師が神から智慧を授かって作ったから、という伝えもあります。
由来は決着していません。 確かなのは、能面の名が細かく分かれていく過程で、ある時期にこの名が定まったということだけです。最古の能面の資料である『申楽談儀』(1430年)に般若の名は見えず、十六世紀後半から十七世紀初めの下間仲孝の著作には現れます。
嫉妬が形をとる例には、髪鬼もあります。女の怨みや嫉妬が自分の頭髪にこもり、鬼の角のように逆立つとされます。
般若をめぐる妖怪のつながり
般若が登場する作品
般若の面は、能の外へ出て一人歩きした数少ない道具です。時代劇、映画、ゲーム、彫り物と、能を知らない人にも姿だけは知られています。
そのぶん、鬼そのものの名前だと思われていることが多いのが実情です。般若という妖怪はいません。あるのは面と、その面が表す心です。
般若が登場する能
葵上
六条御息所の生霊が鬼と化し、僧の祈祷で成仏します。品格のある白般若が使われます。
黒塚(安達原)
安達ヶ原の鬼女の物語です。動物的な表情の黒般若が選ばれます。
鉄輪
夫と後妻を呪う女の曲です。橋姫や生成を用いますが、流儀により般若を使うこともあります。
般若が登場する映画・ドラマ
鬼婆
新藤兼人監督の1964年の映画です。般若面をかけて夜道で人を脅す女が登場します。
桃太郎侍
1976年から放送された時代劇です。主人公が悪党を成敗する場面で般若の面を着けます。
般若が登場するゲーム
ドラゴンクエストⅢ
防具として「般若の面」が登場します。
龍が如く
登場人物のひとりが般若の彫り物を入れています。
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般若についてよくある質問
般若とはどんな妖怪ですか。
般若という妖怪はいません。能で使う面の名前で、嫉妬と恨みから鬼になった女を表します。
なぜ般若という名前なのですか。
定説はありません。般若坊という僧が作ったからという説が広く語られますが否定されており、能『葵上』の台詞に由来するという説、仏教語の般若にちなむという説があります。
般若の面はなぜ悲しそうにも見えるのですか。
上半分と下半分で表情が彫り分けられているためです。眉を寄せた上半分が悲しみを、開いた口の下半分が怒りを表します。
般若と蛇の面は何が違いますか。
怒りの段階が違います。角が生えかけた生成、角の生えきった般若(中成)、蛇に近い蛇・真蛇(本成)という順で深くなります。
般若の面はどこで見られますか。
『葵上』『道成寺』『黒塚』などが上演される能楽堂の舞台で使われます。面そのものは所蔵先が分かれており、公開は展覧会などに限られます。
般若と併せて覚えたい言葉・用語
三鬼女(さんきじょ)
般若面を用いる『葵上』『道成寺』『黒塚』の三曲をまとめた呼び方。
生成(なまなり)
角が生えかけた段階の面。夫への未練が残る心理を表す。
真蛇(しんじゃ)
般若よりさらに怒りの進んだ面。口から舌が覗く。
イノリ(いのり)
祈祷する僧と鬼女が対決する能の場面。般若面の表情の変化が効く。