山道で若い女性に化けて火を求め、旅人の肉を奪うとされた紀伊の妖怪。

江戸伊勢屋治助 「百鬼夜講化物語 肉吸」 1802年 / パブリックドメイン 出典
肉吸いとはどんな妖怪か
肉吸いは、紀伊山地の夜道に現れる女の怪異です。十八、九歳ほどの女が旅人へ「火を貸して」と声をかけ、灯りへ手を伸ばします。相手が近づけば、女は人の肉を奪う恐ろしい姿へ変わります。
南方熊楠が大正七年に紹介した話には、郵便脚夫が火縄で女を退ける一話と、猟師が狼に導かれて白骨の怪を撃つ一話があります。若い女、夜の山道、火、狼、肉のない骨という場面が重なり、肉吸いの名を忘れにくくしています。
肉吸いの漢字表記と読み方
「にくすい」と読みます。大阪の料理と同じ字ですが、妖怪の肉吸いは紀伊の山道で人へ近づく女の怪異です。
肉吸い(にくすい)
人の肉を吸う行動をそのまま名にした表記。
肉吸ひ(にくすい)
南方熊楠の文章題名に見える歴史的仮名遣い。
肉吸い鬼(にくすいおに)
熊楠が十津川の怪異を振り返る際に用いた呼び方。
肉吸いの姿と特徴
最初に見えるのは十八、九歳ほどの女です。猟師の話では、その先に高さ二丈ほどの大きな怪物が現れ、撃ち倒すと肉のない白骨でした。決まった一枚絵ではなく、美しい女から白骨へ変わる落差が姿の核心です。
肉吸いの伝承物語
夜の山道で若い女が火を求める
旅人が提灯を持って山道を進むと、若い女が待っています。女は道を尋ねるのでも、宿を乞うのでもありません。「火を貸して」と呼び止め、旅人の灯りへ近づきます。
山中の夜に火を渡すには、相手の顔が見える距離まで寄らなければなりません。女はその一瞬で人との間を詰めます。旅人が顔を確かめようと灯りを近づけた時には、すでに女の手が届く距離です。
郵便脚夫は火縄を打ちつけて逃れる
熊楠が記した一話では、夜道を急ぐ郵便脚夫が肉吸いに出会います。人の便りを運ぶ脚夫は、暗い山道でも歩みを止められません。女が火を求めて近づくと、脚夫は持っていた火縄を打ちつけ、怪異を退けました。
火は肉吸いを呼び寄せる目印であると同時に、身を守る最後の道具にもなります。女へ提灯を渡して闇に取り残されるのではなく、燃えている火を手元に残したことが、生還の分かれ目になりました。
狼が猟師の袖を引いて足を止める
もう一話の主人公は、果無山へ入った猟師です。道の途中で狼が現れ、先へ進ませまいと猟師の袖を引きます。そこへ若い女が笑いながら近づき、やはり火を求めました。
猟師は女を怪しみ、南無阿弥陀仏の文字を刻んだ弾を銃へ込めます。女はその場を去りましたが、狼は危険が終わったとは見ません。今度は猟師を別の場所へ導き、女の姿の奥にいたものと向き合わせます。
撃ち倒した怪物には肉がなかった
狼の先に現れたのは、高さ二丈ほどもある大きな怪物でした。猟師が用意した弾で撃つと、怪物は倒れます。近寄って確かめた身体には肉がなく、残っていたのは白骨だけでした。
人の肉を求める名と、自分には肉がない結末がここで重なります。若い女の姿は旅人を近づけるための外見であり、白骨こそが飢えた怪物の正体でした。狼は猟師を襲う側ではなく、その正体へ導く側に立っています。
江戸の黄表紙では男女の場面へ移る
江戸の黄表紙『百鬼夜講化物語』にも「肉吸」の名が見えます。こちらは紀伊の山道ではなく、屋内で男女が寄り添う場面です。山中で旅人の肉を奪う話と、男が女へ入れあげて身をすり減らす滑稽な見立てが、同じ名のもとに並びました。
紀伊の山の怪談と江戸の黄表紙は、別々の場面として成立しました。紀伊の肉吸いは火を求める女と白骨の結末、黄表紙の肉吸は男女関係を扱う都市の戯画です。
肉吸いの伝承地域
話の舞台は十津川と果無山を含む紀伊山地です。怪異の一点を示す資料はないため、地図は伝承地域を示します。
十津川・果無山周辺(とつかわ・はてなしさんしゅうへん)
肉吸いの話が伝えられた山域
十津川・果無山周辺の所在地:奈良県吉野郡十津川村
郵便脚夫と猟師の話は、紀伊と大和の境に広がる山道を舞台にします。
示しているのは紀伊の山道です。登山・通行時は公的な道路情報と安全情報を確認してください。
肉吸いの正体と考えられているもの
肉吸いは、助けを求める若い女の声で旅人を立ち止まらせ、火と暗闇を境に白骨の怪へ変わる紀伊の妖怪です。郵便脚夫には火縄、猟師には狼と念仏を刻んだ弾が生還の手掛かりとなり、山道で灯りを失う怖さが具体的な物語になっています。
肉吸いをめぐる妖怪のつながり
肉吸いが登場する作品
肉吸いは、火を求めて近づく怪異です。
「火を貸して」と呼び止め、旅人の灯りへ寄ります。山中の夜に火を渡すには、顔が見える距離まで寄らなければなりません。 女はその一瞬で人との間を詰めます。
撃ち倒された怪物には肉がなく、残っていたのは白骨だけでした。人の肉を求める名と、自分には肉がない結末が、ここで重なります。
肉吸いが登場する民俗学
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肉吸いについてよくある質問
肉吸いとはどんな妖怪ですか。
紀伊の山道で若い女に化け、「火を貸して」と旅人へ近づく妖怪です。猟師の話では、撃ち倒すと肉のない白骨の怪でした。
肉吸いはなぜ火を求めるのですか。
旅人を自分のそばへ寄せ、灯りを奪って闇へ置くためです。一方、郵便脚夫は手元の火縄を使って肉吸いを退けました。
肉吸いの話で狼は何をしますか。
猟師の袖を引いて進路を止め、若い女が去ったあとには白骨の怪がいる場所へ猟師を導きます。狼は、正体へ導く側に立ちます。
妖怪の肉吸いと料理の肉吸いは同じですか。
別のものです。妖怪は紀伊山地の夜道を舞台にする怪談の名です。料理の肉吸いは、大阪で知られる肉うどんからうどんを抜いた汁物を指します。
肉吸いと併せて覚えたい言葉・用語
果無山(はてなしさん)
紀伊山地に連なる山。猟師が肉吸いに出会う話の山域として語られる。
火縄(ひなわ)
火を保ちながら燃える縄。郵便脚夫が肉吸いを退ける道具になる。
百鬼夜講化物語(ひゃっきやこうばけものがたり)
肉吸の名を男女の場面に用いた江戸の黄表紙。
肉吸いの参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。