夜道で人の行く手をふさぐ、見えない壁のような妖怪。

作者不明 「化物之繪 ぬりかべ」 1700年ごろ / パブリックドメイン 出典
塗壁とはどんな妖怪か
塗壁は、日本の九州北部に伝えられる妖怪です。夜道で人の歩行を阻む、壁のようなものとされます。
福岡県遠賀郡の海岸地方の伝承によれば、夜道を歩いていると、目の前に突然壁が立ちはだかって前へ進めなくなります。壁の横をすり抜けようとしても、左右にどこまでも壁が続いており、よけて進むこともできません。
蹴飛ばしても、上のほうを叩いてもどうにもなりません。ところが、下のほうを棒で払えば壁は消えるといいます。
この妖怪の性質を含めた文献上の記録は、昭和期の柳田國男による民間伝承の採取が初出です。柳田の「妖怪名彙」(1938年、のち『妖怪談義』1956年に収録)に記載されました。少なくとも、これによって全国的に知られるようになりました。
原文には「目に見えない」と明記されていません。 見えない壁という解釈は、解説者によって加えられたものです。
塗壁の漢字表記と読み方
読みは「ぬりかべ」です。
塗壁とは、本来は建築の言葉です。土や漆喰を塗って仕上げた壁を指します。
大分県臼杵市には「油漆喰」という漆喰の技術があります。これを壁に施すと水を弾いて異様に見えることから、この技術が妖怪伝説の発祥だという説もあります。
地方では、正体を獣とする呼び方が定着しています。狸の塗り壁、イタチの塗り壁。
壁そのものが妖怪なのか、壁のように感じさせる獣がいるのか。 呼び名の違いに、その揺れが出ています。
塗壁(ぬりかべ)
もっとも一般的な表記。
ぬりかべ(ぬりかべ)
ひらがな表記。妖怪絵巻の添え書きもこの形。
狸の塗り壁(たぬきのぬりかべ)
大分県での呼び方。正体を狸とする。
イタチの塗り壁(いたちのぬりかべ)
大分県香々地町(現在の豊後高田市)での呼び方。
塗壁の姿と特徴
塗壁の姿は、長いあいだわかっていませんでした。
柳田國男が採取した伝承には、姿の描写がありません。あるのは、前に進めなくなるという体験だけです。原文には「目に見えない」とも明記されていませんが、姿の記述がないため、見えない壁という解釈が広まりました。
現在よく知られている四角い壁に手足が生えた姿は、水木しげるの漫画によるものです。
ところが近年、江戸時代の妖怪絵巻に「ぬりかべ」という名称の添え書きのある絵が「発見」されました。
アメリカのブリガムヤング大学付属図書館が所蔵する妖怪絵巻『化物之繪』(1660年ごろの成立とされます)に描かれたその妖怪は、「白イヌ・白ゾウのような生物」と形容される姿です。三つ目で牙のある、獅子か犬のような姿をしています。
目に見えない何かです。 同じ名前を持つ別の妖怪なのか、これがもとの姿なのかは、わかっていません。
塗壁の伝承物語
下を払えば消える ─ 対処法が伝わる怪異
塗壁の伝承で特徴的なのは、対処法がはっきり伝わっていることです。
福岡県遠賀郡の伝承では、こうです。
蹴飛ばす … 効果なし。
上のほうを叩く … 効果なし。
下のほうを棒で払う … 壁が消える。
なぜ下なのか、理由は語られていません。 ただ、そうすれば消えると伝わっています。
大分県の狸の塗り壁では、対処法が違います。その場に座り込んで、煙草に火をつけて一服する。 そうすると視界がひらけ、前に進めるようになるといいます。
大分県南海部郡(現在の佐伯市)の民話では、さらに具体的です。正体は狸で、人が着ている着物の後ろの帯の結び目に乗り、両手で人の目を塞いで視界を奪う。だから狸が乗れないように、帯の結び目を前にして締めれば避けられるといいます。
対処法が具体的なほど、その怪異は日常に近い場所にありました。
狸の塗り壁 ─ 大分県の伝承
大分県では、塗壁は動物が起こす怪異として伝えられています。
歩行中に突然目の前が見えなくなる怪異が、同県内各地に「狸の塗り壁」として伝わります。香々地町(現在の豊後高田市)では「イタチの塗り壁」と呼ばれました。
狸がこれを起こすとき、陰嚢を一杯に広げて夜道を行く人の視界を塞いでいるともされます。八畳敷きの陰嚢という化け狸の特徴が、ここでも出てきます。
大分県南海部郡(現在の佐伯市)に伝わる民話では、塗壁は七曲りという坂道に、小豆とぎとともに現れるとされます。夜を歩いている最中に、急に目の前が真っ暗になるといいます。
大分県臼杵市にも「ぬりかべ」の伝承があります。この地には「油漆喰」という技術があり、これを壁に施すと水を弾いて異様に見えることから、妖怪伝説の発祥になったという説があります。
福岡の塗壁が壁そのものであるのに対し、大分の塗壁は獣です。 同じ名前でも、中身が違います。
絵巻から見つかった三つ目の獣
塗壁については、近年になって大きな発見がありました。
アメリカ合衆国のブリガムヤング大学付属図書館が所蔵する妖怪絵巻『化物之繪』(ハリー・F・ブルーニング・コレクション蔵、1660年ごろの成立説)に、「ぬりかべ」という名称が添え書きされた絵が含まれていたのです。
そこに描かれているのは、「白イヌ・白ゾウのような生物」と形容される姿でした。三つ目で牙のある、獅子か犬のような姿です。
これとほぼ同じ絵は、湯本豪一が所蔵する『化物づくし絵巻』にも見つかっています。
目に見えない何かです。
これをどう考えるかは、難しいところです。
同じ名前を持つ別の妖怪なのか。
これが塗壁のもとの姿で、後に壁の怪異になったのか。
逆に、壁の怪異が先で、絵師が姿を与えたのか。
どれとも決められません。確かなのは、江戸時代に「ぬりかべ」という名の妖怪が絵に描かれていたということだけです。
塗壁の伝承地域
塗壁には、訪ねられる伝承地がありません。
理由ははっきりしています。塗壁は「夜道」そのものに現れる妖怪であり、特定の場所に住むものではないからです。
伝承が記録された土地としては、次のものが挙げられます。
福岡県遠賀郡の海岸地方 … 柳田國男が採取した、壁の怪異の伝承地です。
大分県各地 … 狸の塗り壁。
大分県豊後高田市(旧香々地町) … イタチの塗り壁。
大分県佐伯市(旧南海部郡) … 七曲りという坂道に、小豆とぎとともに現れるとされます。
大分県臼杵市 … 油漆喰の技術が伝説の発祥だという説があります。
いずれも、夜道や坂道です。目印は残っていません。
無い場所を、あるように書くことはしません。この欄は空のままにしてあります。
塗壁の正体と考えられているもの
塗壁の正体については、次の見方があります。
一つめは、狸や鼬です。大分県では、これが定着した説明です。狸が陰嚢を広げて視界を塞ぐ、帯の結び目に乗って両手で目を覆う、といった具体的な形で語られます。対処法まで決まっていることは、この説明が生活のなかで使われていた証拠です。
二つめは、夜道での方向感覚の喪失です。真っ暗な夜道では、実際に前へ進めなくなることがあります。方角がわからなくなり、同じ場所を回ってしまう。これを壁に阻まれたと感じても不思議はありません。
三つめは、疲労と空腹です。夜道で急に力が抜けて動けなくなる現象は、ヒダル神として各地に伝わります。塗壁と近い体験です。
四つめは、油漆喰です。大分県臼杵市の説で、水を弾く異様な壁が伝説を生んだというものです。
五つめは、絵巻の獣です。近年見つかった江戸時代の絵巻には、「ぬりかべ」の名で三つ目の獣が描かれています。これがもとの姿である可能性があります。
塗壁が何であったかは、決められていません。 そして、現在広く知られている四角い壁の姿は、水木しげるが与えたものです。伝承には姿の描写がありません。
塗壁をめぐる妖怪のつながり
塗壁が登場する作品
塗壁は、水木しげるが姿を与えた妖怪の代表例です。伝承には姿の描写がなく、四角い壁に手足という形は漫画で作られました。
鬼太郎の仲間という役どころが定着したため、多くの人にとって塗壁は親しみのある妖怪です。もとの伝承は、夜道で前に進めなくなるという、それなりに不気味なものでした。
塗壁が登場する記録
妖怪名彙
柳田國男、1938年。塗壁の性質を含めた記録としてはこれが初出とされます。
化物之繪
1660年ごろの成立とされる妖怪絵巻です。「ぬりかべ」の名で三つ目の獣が描かれています。
塗壁が登場する漫画・アニメ
妖怪をまとめて扱う作品
進路を阻むという性質が扱いやすく、繰り返し登場します。
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塗壁についてよくある質問
塗壁とは何ですか。
九州北部に伝えられる妖怪で、夜道で人の行く手をふさぐ壁のようなものとされます。柳田國男の「妖怪名彙」で全国に知られました。
塗壁に出会ったらどうすればよいのですか。
下のほうを棒で払えば壁は消えると伝わります。大分県の狸の塗り壁では、その場に座って煙草を一服すると視界がひらけるといいます。
四角い壁の姿は伝承にありますか。
ありません。柳田が採取した伝承に姿の描写はなく、四角い壁に手足が生えた姿は水木しげるの漫画によるものです。
江戸時代の絵に描かれた塗壁は壁ではないのですか。
目に見えない何かです。近年見つかった妖怪絵巻の「ぬりかべ」は、三つ目で牙のある獅子か犬のような姿です。これがもとの姿なのかは、わかっていません。
塗壁に会える場所はありますか。
ありません。夜道そのものに現れる妖怪で、特定の場所に住むものではないためです。
塗壁と併せて覚えたい言葉・用語
妖怪名彙(ようかいめいい)
柳田國男が各地の妖怪を集めて並べた一覧。塗壁の初出。
化物之繪(ばけもののえ)
アメリカで所蔵される妖怪絵巻。「ぬりかべ」の名で三つ目の獣を描く。
油漆喰(あぶらしっくい)
大分県臼杵市の漆喰技術。水を弾く壁が伝説を生んだという説がある。
ヒダル神(ひだるがみ)
山道で急に力が抜けて動けなくなる怪異。塗壁と近い体験。