佐渡島の夜道で大きな風呂敷のように飛来し、鉄漿を染めた歯でのみ噛み切れる布状の妖怪。

衾とはどんな妖怪か
衾は、夜道で人の頭を包む布です。
佐渡島に伝わります。前からとも後ろからともなく飛んできて、通行人の頭からすっぽりかぶさる。
衾の物語は、飛来、包囲、刀の失敗、鉄漿を染めた歯による脱出という順序を持つ佐渡の伝承です。
衾の漢字表記と読み方
読みは「ふすま」です。日文研カードでは、呼称も漢字欄も片仮名の「フスマ」となっています。
建具の「襖」と同音ですが、記録が姿をたとえるのは大きな風呂敷です。「衾」は本来、身体を覆う寝具や布を表す字で、頭を包む妖怪の姿に対応する表記として使われます。
フスマ(ふすま)
1938年の「妖怪名彙(四)」を整理した日文研カードの表記。
衾(ふすま)
大きな布状のものを表す漢字を用いた一般的な表記。
衾の姿と特徴
フスマは、大きな風呂敷のようなものと記録されています。夜中に空中を移動し、人の頭全体を包める大きさです。
中心記録には、顔、目、口、手足、模様、色はありません。布団の厚みがあるとも、建具の襖の形をしているとも書かれていません。前から来る場合も後ろから来る場合もあり、どちらから現れるかを予測できないのが特徴です。
名刀で切れないのに、鉄漿を染めた歯では噛み切れるため、見た目の柔らかさと刃物に対する強さが逆転しています。
衾の伝承物語
夜道へ飛んでくる大きな風呂敷
佐渡の夜道を人が歩いていると、前からとも後ろからともなく、大きな風呂敷のようなものが近づいてきます。相手の顔も声もなく、逃げる方向を選ぶ前に頭を包まれてしまいます。
記録は、どの道で誰が遭ったか、何人が襲われたかを伝えていません。フスマが頭を包んだあと、息ができたか、倒れたかも詳しくありません。
それでも物語の危険は明確です。夜道で前後のどちらからでも現れ、視界ごと頭を覆う。布という身近な物が、逃げ道を奪う妖怪に変わります。
名刀で切れず、鉄漿を染めた歯で切れる
頭を包まれた者が刃物で逃れようとしても、どのような名刀を使ってもフスマは切れません。ところが、一度でも鉄漿を染めたことのある歯で噛むと、容易に噛み切れるとされます。
鉄漿は「おはぐろ」とも読み、歯を黒く染める習俗です。刀という強い武器が役に立たず、日常の身体習俗を持つ歯だけがフスマを破るという逆転が、この話の結末になっています。
ここで効くのは、刀の銘でも剣の腕でもありません。鉄漿を染めた歯です。鉄漿を染めた経験のある歯かどうかが、脱出できる者とできない者を分けます。
佐渡で男性も鉄漿をつけたという由来
フスマを噛み切るには、鉄漿を染めた歯が必要です。伝承はそこから、佐渡では昔、男性も鉄漿をつけており、その習慣は近年まで続いたと説明します。
この部分は、フスマ退治の手順だけでなく、土地の習俗がなぜ必要だったのかを語る由来譚になっています。ただしこれは、由来を後から説明する形の話です。
物語の中では、妖怪から身を守る力を持つ歯を作る習慣として鉄漿が位置づけられています。フスマの話は、夜道の恐怖と佐渡の身体習俗を一つの筋で結んでいます。
フスマは夜具の名だった ─ 柳田国男の見方
「フスマ」は、もともと寝具の名です。柳田国男が『雪国の春』で説明しています。
フスマ(衾)というのは大形の衣服のことであった。ヨブスマというのは、全身を蔽い包むほどの大きな藤布製などの夜具のことで、妖怪のヨブスマもそれから出た名かと思う。
(藤布=藤のつるの繊維で織った粗い布)
全身を包むほど大きい夜具。 それが夜道で人の頭を包む妖怪の名になりました。柳田は、山村で使われていた衾には袖と襟があったとも書いています。
布団ではなく、着るものに近い形です。 大きな布が飛んできて人にかぶさるという話は、この寝具を知っていればすぐ像が結べます。
妖怪の名が、暮らしの道具から出ている。 佐渡の衾は、夜具の記憶をそのまま怪異にしたものでした。
袖と襟のある夜具 ─ コタツより古い
柳田国男は、山村で使われていた衾の形も書きとめています。
近いころまで山村で使用していたのは、いずれも袖がありまた襟があった。こんな形の衾の下には、コタツはとうてい発達しえなかった。
袖と襟のある夜具。 布団というより、大きな着物をかぶって寝る 形です。
この形なら、飛んできて人にかぶさるという話がそのまま像を結びます。妖怪のフスマは、寝るときに全身をくるんだ布の記憶でした。
柳田はついでに、コタツが思ったより新しい道具だとも書いています。衾の下ではコタツは育たなかった、と。
衾の伝承地域
フスマの伝承地域は新潟県の佐渡島です。日文研カードは引用文献を『佐渡の昔話』とし、地域欄を新潟県としています。
中心記録には村名、峠名、道路名がありません。地図が示すのは佐渡島という範囲です。島内のどの道に出たかまでは伝わっていません。
衾の正体と考えられているもの
フスマの正体は確定していません。大きな鳥やムササビ、風に飛ばされた布などを連想することはできますが、中心記録は原因を説明していません。
物語に固有なのは、大きな風呂敷のような形、前後からの飛来、頭を包む動き、名刀では切れないこと、鉄漿を染めた歯なら噛み切れることです。自然物の見間違いだけでは、刀と歯の逆転や鉄漿習俗との結び付きまでは説明できません。
フスマは、佐渡の夜道で頭を包む布状の妖怪であり、鉄漿を染めた歯によって切り抜ける物語として伝わります。
衾をめぐる妖怪のつながり
衾が記録された資料
フスマの中心記録は、柳田國男「妖怪名彙(四)」に収められています。同記録は『佐渡の昔話』を引用文献として、大きな風呂敷の飛来、名刀、鉄漿を染めた歯、佐渡の男性の鉄漿習俗を一続きの話として伝えます。
衾が記録された民俗資料
佐渡の昔話
「妖怪名彙(四)」のフスマ記録が引用文献として示す佐渡の昔話資料。
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。
衾についてよくある質問
衾とはどんな妖怪ですか。
佐渡島で、大きな風呂敷のように飛来し、夜道を歩く人の頭を包むと語られた布状の妖怪です。名刀では切れず、鉄漿を染めた歯なら噛み切れるとされます。
衾は何と読みますか。
「ふすま」と読みます。日文研の公的な伝承カードでは、呼称欄と漢字欄の両方に片仮名で「フスマ」と記され、建具の襖とは異なる布状の怪異を指します。
衾はどの資料にありますか。
柳田國男「妖怪名彙(四)」に記録され、引用文献として『佐渡の昔話』が示されています。掲載誌は1938年の『民間伝承』4巻1号です。
衾はどうすれば退けられますか。
伝承では、どのような名刀でも切れませんが、一度でも鉄漿を染めたことのある歯で噛むと容易に切れるとされます。この結末が佐渡の男性の鉄漿習俗へ結び付きます。
衾と併せて覚えたい言葉・用語
衾(ふすま)
佐渡島で、大きな風呂敷のように飛来し、夜道の人の頭へかぶさると語られた布状の妖怪。
鉄漿(おはぐろ)
歯を黒く染める習俗。フスマの話では、一度でも染めた歯なら妖怪を噛み切れる。
佐渡の昔話(さどのむかしばなし)
「妖怪名彙(四)」のフスマ記録が引用文献として挙げる佐渡の昔話資料。
衾の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。