近江の三上山を七巻き半したという巨大な百足。俵藤太が唾をつけた矢で射止めた。

勝川春亭 「藤原秀郷の百足退治」 1815〜1820年 / パブリックドメイン 出典
大百足とはどんな妖怪か
大百足は、三上山に巻きついていた巨大な百足です。山を七巻き半するほどの長さがあったといいます。
退治したのは藤原秀郷、通称俵藤太(たわらのとうた)。平将門を討ったことで史書に名を残す実在の武将です。その秀郷に、龍宮の使いが百足退治を頼みに来る、というのがこの話の骨格です。
百足が近づいてくる場面の描写がよく知られています。松明を二、三千本も連ねて動かしているような光の列が、山を下ってきた。 それが百足の胴に並んだ無数の足だった、というのです。
矢は二本まで跳ね返されます。最後の一本に唾をつけて放つと、額を貫いて百足は倒れました。人の唾が虫に効くという当時の考えが、そのまま話の要になっています。
蛇や龍が人に助けを求め、代わりに宝を与えるという筋は各地にありますが、その敵役が百足であるものは多くありません。大百足は、日本の妖怪のなかで虫を代表する存在です。
大百足の漢字表記と読み方
読みは「おおむかで」です。百足は足が多いことをそのまま字にしたもので、実際の足の数は種によって変わります。
退治した側の俵藤太は「たわらのとうた」または「たわらのとうだ」と読みます。藤太は「藤原氏の長男」を意味する呼び名にあたります。俵の字については、褒美に尽きることのない米俵を得たからという説明が広く語られますが、相模の田原荘に由来するという説もあり、決着していません。
大百足(おおむかで)
もっとも一般的な表記。
大蜈蚣(おおむかで)
蜈蚣も百足と同じくムカデを指す字。秀郷の刀「蜈蚣切」はこの字を使う。
三上山の百足(みかみやまのむかで)
住処から呼ぶ言い方。
大百足の姿と特徴
大百足の姿は、大きさの語り方に特徴があります。
長さ … 三上山を七巻き半するほど。この数字は『近江輿地志略』(1723年)に見えます。
足 … 無数。夜に動くと、松明を二、三千本連ねたように見えたと『太平記』は書きます。
頭 … 額に矢を受けて倒れる。急所は額とされます。
色 … 絵巻では黒褐色の胴に赤い頭で描かれることが多いものです。
『太平記』では住処が三上山ではなく比良山になっており、書物によって場所が動きます。
退治の場面は絵の題材として好まれました。橋の上の藤太、水底の龍宮、山を巻く百足という三つが一枚に収まるため、浮世絵で繰り返し描かれた妖怪でもあります。
大百足の伝承物語
瀬田の唐橋 ─ 大蛇を踏み越えた男
話は、百足ではなく大蛇から始まります。
近江の瀬田の唐橋に、大きな蛇が横たわっていました。人々は恐れて渡れずにいましたが、通りかかった俵藤太だけは平然とその背を踏み越えて行きます。
その夜、藤太のもとに一人の女(御伽草子)あるいは小男(『太平記』)が訪ねてきます。正体は琵琶湖の底の龍宮に住む者で、昼間の大蛇はその化けた姿でした。恐れない者を探すために、橋に横たわっていたというのです。
頼みは一つ、三上山の百足を退治してほしいというものでした。龍宮の一族は代々この百足に食われており、自分たちの力では及ばないと訴えます。
三本目の矢 ─ 唾をつけて放つ
藤太は弓を携えて山へ向かいます。
やがて山の向こうから、無数の光が連なって近づいてきました。松明の列に見えたそれが、百足の足でした。
一の矢を放つと、額に当たって跳ね返ります。二の矢も同じでした。三本目に、藤太は鏃に唾をつけて放ちます。すると矢は額に深く食い込み、百足は山を揺らして倒れました。
御伽草子では、このとき藤太は八幡神に祈念しています。射止めたあと、百足をずたずたに切り捨てたとも記されます。
唾が百足に効くという考え
唾が効くという発想は、虫刺されに唾をつける古い習慣と地続きです。神仏の加護ではなく、身近な手当てが決め手になるという点が、この話をどこか実務的なものにしています。
南方熊楠は『十二支考』で、唾を使うこの手立てを外国の記録と突き合わせています。
貝原先生同様人の唾が蜈蚣の大敵たる由を言うたは、秀郷唾を鏃に塗りて大蜈蚣を殺したというに合う
(鏃=やじり)唾が百足に効くという言い伝えは、日本だけのものではありませんでした。
龍宮の宝 ─ 尽きない俵と鍋
礼として、藤太は龍宮に招かれます。
授かったのは、取っても尽きない絹の巻物、米の俵、鍋でした。時代が下ると品数は増え、『和漢三才図会』(1712年)や『東海道名所図会』(1797年)には、太刀に「遅来矢」の号があったと記されます。鎧を「避来矢」と呼び、下野の佐野家に伝わったとする異説もあります。
伊勢神宮には、秀郷が所有したと伝わる刀剣が二振り納められています。ひとつは龍神から贈られたという伝来を持つ毛抜形太刀、もうひとつは「蜈蚣切」の名を持つ刀です。ただし蜈蚣切は八世紀の作と伝わりながら、鑑定では十四世紀ごろのものとされています。
物語のなかの宝が、現実の刀剣として今も残っている。この重なりが、大百足の話を長く生かしてきました。
百足は何だったのか ─ 鉄と山
この話の下敷きとして、鎌倉時代初めの『古事談』にある粟津冠者の説話が指摘されています。
鐘を鋳る鉄を求めて出雲へ向かった男が嵐に遭い、海底の龍宮に招かれて宿敵の大蛇を射殺す、という筋です。鐘を鋳る鉄が話の出発点になっている点が重要で、研究者の若尾五雄は、百足は鉄の鉱脈を表し、「射る」は「鋳る」に通じると論じました。
実際、三上山の周辺は古くから金属と縁の深い土地です。山を巻く長い胴を鉱脈に見立てる読み方は、鬼を鉱山の民とする説とも通じています。
田原という土地の名
下野には、日光と赤城の神が戦い、大百足に化けた赤城の神が討たれるという話もあります。同じ土地の神が、別の話では妖怪の側に回っている。 大百足は、そういう境目に立つ妖怪です。
柳田国男は「名字の話」で、秀郷の住まいをこう書いています。
三上山の百足を退治した時代には、近江に近い山城の田原に住んでいて、藤原家であるところから田原の藤太秀郷と称していた
田原は土地の名です。 三上山と田原。退治の話は、実在の地名の上に組まれています。
大百足の伝承地域
大百足の伝承地は、住処とされる三上山と、話の始まる瀬田の唐橋の二つが軸になります。どちらも琵琶湖の南岸にあり、間は電車か車で移動しますが同じ日に訪ねられます。
このほか、福島県福島市の飯坂温泉にも俵藤太の百足退治の伝承があり、退治のあとに湧いたという温泉が伝わります。栃木県佐野市は秀郷の本拠地で、唐沢山神社が秀郷を祀ります。ただしこれらは秀郷ゆかりの地であって、百足そのものの伝承地とは性格が違うため、ここには挙げていません。
三上山(みかみやま)
大百足が巻きついていたとされる山
三上山の所在地:滋賀県野洲市三上
琵琶湖の東岸にある、きれいな円錐形の山です。形の美しさから近江富士とも呼ばれます。
山を七巻き半した百足がここに住んでいたとされ、俵藤太の伝説はこの山を舞台にしています。標高は四百三十二メートルほどで、登山道が整備されています。
ふもとには御上神社があり、この山そのものを神体としてきました。国宝の本殿が建ちます。
登山口は御上神社の側にある。山頂まで一時間ほど。
瀬田の唐橋(せたのからはし)
大蛇が横たわっていたとされる橋
瀬田の唐橋の所在地:滋賀県大津市瀬田
琵琶湖から流れ出る瀬田川に架かる橋です。藤太が大蛇の背を踏み越えたのがこの橋とされます。
古代から交通の要で、「唐橋を制する者は天下を制す」と言われました。現在の橋は昭和の架け替えによるものですが、擬宝珠を持つ木の橋の姿を受け継いでいます。
橋のたもとには俵藤太の銅像が据えられ、百足退治の伝説を伝えています。
橋は現役の道路橋。歩いて渡ることができる。
大百足の正体と考えられているもの
大百足の正体については、いくつかの見方があります。
もっともよく引かれるのが、鉱脈とする見方です。研究者の若尾五雄は、山を巻く長い胴が鉄の鉱脈を表し、矢で「射る」ことが鉄を「鋳る」ことに通じると論じました。原話とされる『古事談』の粟津冠者の話が、鐘を鋳る鉄を求める旅から始まっていることも、この見方を支えます。
次に、土地の神が零落したとする見方です。下野には、赤城山の神が大百足に姿を変えて日光の神と戦い、討たれるという話があります。討たれた側の神が、時代を下って妖怪として語り直されたという筋道です。
三つめに、武勇伝の敵役とする見方です。藤原秀郷は平将門を討った人物であり、その武勇を語るために大きな敵が必要でした。龍宮の宝を授かるという結末は、秀郷の家に伝わる宝物の由来を説明する働きも持っています。
ムカデそのものが、毘沙門天の使いとして武家に尊ばれた点も見落とせません。倒す相手であると同時に、武の象徴でもあった。 大百足が何であったのかは、決められていません。
大百足をめぐる妖怪のつながり
大百足が登場する作品
大百足は、単独の妖怪としてより、俵藤太の物語の一部として受け継がれてきました。作品に登場するときも、退治する側の武将と組で扱われることが多いのはこのためです。
浮世絵の題材としては非常に人気があり、山を巻く長大な胴という絵柄の強さが、この妖怪を今日まで運んできました。
大百足が登場する古典・絵巻
浮世絵
歌川国芳をはじめ、多くの絵師が百足退治を描きました。橋・龍宮・山を巻く百足という見せ場が揃っているためです。
大百足が登場するゲーム
大百足が登場する漫画・アニメ
俵藤太を扱う歴史もの
平将門を主題とする作品では、討伐する側として秀郷が描かれ、百足退治が併せて語られることがあります。
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大百足についてよくある質問
大百足はどこにいたとされていますか。
近江国の三上山(滋賀県野洲市)とするのが一般的です。ただし『太平記』では比良山を住処としており、書物によって異なります。
大百足を退治したのは誰ですか。
藤原秀郷、通称・俵藤太です。平将門を討ったことで史書に名を残す実在の武将で、百足退治は後世に作られた伝説です。
なぜ矢に唾をつけたのですか。
人の唾が虫に効くという当時の考えによります。二本の矢は跳ね返されましたが、唾をつけた三本目が額を貫きました。
三上山を何巻きしていたのですか。
七巻き半とするのが広く知られた数字で、『近江輿地志略』(1723年)に見えます。
大百足に会える場所はありますか。
滋賀県野洲市の三上山と、滋賀県大津市の瀬田の唐橋が伝承地です。唐橋のたもとには俵藤太の銅像があります。
大百足と併せて覚えたい言葉・用語
俵藤太(たわらのとうた)
藤原秀郷の通称。藤太は「藤原氏の長男」の意。
瀬田の唐橋(せたのからはし)
琵琶湖から流れ出る瀬田川に架かる橋。交通の要衝で、多くの伝説の舞台となった。
蜈蚣切(むかできり)
百足を斬ったと伝わる刀の号。伊勢神宮に納められている。
避来矢(ひらいし)
龍宮から授かったと伝わる鎧の号。下野の佐野家に伝わったとされる。
大百足の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。