源頼光を糸で襲った巨大な蜘蛛の妖怪。もとは朝廷に従わない人々を指す言葉。

鳥山石燕 「今昔画図続百鬼 土蜘蛛」 1779年 / パブリックドメイン 出典
土蜘蛛とはどんな妖怪か
土蜘蛛は、二つの顔を持つ言葉です。
ひとつは妖怪の土蜘蛛。病に伏せた源頼光の枕元に僧の姿で現れ、糸を投げかけて襲った巨大な蜘蛛です。頼光が刀で斬りつけると僧は消え、血の跡をたどった塚から山蜘蛛が現れました。この刀は以後蜘蛛切と呼ばれます。
もうひとつは古代の記録の土蜘蛛。記紀や風土記で、中央に従わない地方勢力に付けられた呼び名です。手足が長い、穴に住むと書かれます。
人に付けられた蔑称が、数百年かけて本物の蜘蛛の化け物になった。 土蜘蛛は、妖怪が生まれる過程がもっともはっきり追える一体です。
土蜘蛛の漢字表記と読み方
読みは「つちぐも」です。土の蜘蛛と書きます。
古代史料の用例は地方勢力を表す呼称であり、中世の源頼光譚では蜘蛛の怪異として描かれます。同じ表記でも、史料の時代と文脈で対象が違います。
土蜘蛛(つちぐも)
もっとも一般的な表記。
土蜘蛛(つちごも)
古い文献に見られる読み。
都知久母(つちくも)
『日本書紀』などで音を漢字で写した表記。
山蜘蛛(やまぐも)
『平家物語』剣巻で、正体を現した姿を指す語。
土蜘蛛の姿と特徴
土蜘蛛の姿は、どちらの土蜘蛛かで大きく変わります。
妖怪の土蜘蛛は、絵巻では巨大な蜘蛛です。『土蜘蛛草紙』では山ほどの大きさに描かれ、腹から無数の小蜘蛛や髑髏があふれ出します。
ところが『平家物語』剣巻は、塚から現れたものを「身の丈四尺ばかりの山蜘蛛」と記します。四尺はおよそ1メートル20センチ。山ほどの巨大蜘蛛ではなく、人の腰ほどの大きさ として書かれている点は見落とされがちです。
そして襲うときは僧の姿をとります。頼光の枕元に立ったのは、見慣れない一人の僧でした。姿を偽って近づき、それから糸を投げる。 段取りのある妖怪です。
古代の記録の土蜘蛛は、身が短く手足が長い、背が低い、と描かれます。人でありながら人と違う、という書き方です。
土蜘蛛の伝承物語
神武東征で討たれる ─ 従わない人々の名
古代の記録に出てくる土蜘蛛は、人です。
『日本書紀』『風土記』では、中央に従わない地方の勢力を土蜘蛛と呼びました。手足が長い、穴に住むといった書き方をされます。異形として描くことで、討つ理由が立ちました。
歴史学者の喜田貞吉は、神武東征の場面を引いてこう書いています。
神武天皇御東征の時に、大和の土人に猪祝・居勢祝などという土蜘蛛がいたとあるのもこれである。
(祝=神と人のあいだに立つ役。土人=その土地に元から住む人)
柳田国男も、退治の記事が西国に多く残ることを指摘しました。
豊後・肥前・日向等の『風土記』に、土蜘蛛退治の記事の多いことは、常陸・陸奥等に譲りません
土蜘蛛はもともと、蜘蛛ですらありません。 従わない人々に付けられた名でした。
頼光の病 ─ 枕元に立つ僧
妖怪としての土蜘蛛が現れるのは、『平家物語』剣巻や『土蜘蛛草紙』です。
源頼光が原因のわからない熱病に伏せ、三十日あまりも起き上がれずにいました。ある夜、身の丈七尺ほどの見慣れない僧が枕元に立ちます。
僧は縄のようなものを取り出し、頼光を縛ろうとしました。頼光は枕元の太刀を取って斬りつけます。僧は姿を消しました。
騒ぎを聞いて駆けつけた渡辺綱が松明で照らすと、床に血が残っていました。
血の跡をたどると大きな塚があり、そこから山蜘蛛が現れます。頼光の家来たちは塚を崩し、正体を現した怪異を討ち取ります。
頼光の病はたちどころに癒えました。この太刀は以後蜘蛛切と呼ばれます。
土蜘蛛草紙 ─ 化け物の行列
鎌倉時代の絵巻『土蜘蛛草紙』は、この話をさらに広げます。
頼光と渡辺綱が北山の蓮台野を訪れると、髑髏が宙を飛んでいきます。追っていくと古い屋敷があり、そこで次々に化け物が現れました。年老いた尼、大きな法師、美しい女。夜が明けるまで、姿の違う化け物が入れ替わり立ち替わり現れます。
最後に現れた女に太刀を振るうと白い血が飛び、跡をたどった山中の洞窟で巨大な蜘蛛と対決することになります。
この絵巻の見どころは、化け物の種類の多さです。妖怪の絵巻としては早い時期のもので、日本の妖怪画の出発点のひとつに数えられます。
蜘蛛の腹から小蜘蛛と髑髏があふれ出す場面は、日本の妖怪画でもっとも凄まじい絵のひとつとされています。
蔑称が化け物になる ─ 二つの土蜘蛛が結びつく
古代の記録の土蜘蛛と、頼光を襲った蜘蛛。この二つは、もともと別のものでした。
国文学研究資料館の研究は、古代の記紀神話で地方勢力として語られた土蜘蛛が、中世の武家物で妖怪退治譚へ再構築されたと整理しています。
能では病床の頼光、僧に化けた土蜘蛛、血の跡、葛城山の古塚、糸を投げる合戦という筋にまとめられました。古代の服属譚が、そのまま巨大蜘蛛になったと単純化せず、複数の文学・芸能が物語を作り替えた過程として読みます。
土蜘蛛の伝承地域
土蜘蛛の伝承地は、妖怪としての土蜘蛛(京都)と古代の記録の土蜘蛛(大和・九州)にはっきり分かれます。
九州の風土記に記された土蜘蛛の伝承地も各地にありますが、その多くは地名としてしか残っていません。 ここでは、塚や山として今も場所を訪ねられるものを挙げました。
上品蓮台寺(源頼光朝臣塚)(じょうぼんれんだいじ)
土蜘蛛を退治した塚と伝わる地
上品蓮台寺(源頼光朝臣塚)の所在地:京都府京都市北区紫野十二坊町
境内に源頼光朝臣塚と呼ばれる塚があります。土蜘蛛が現れた塚、あるいは討った蜘蛛を葬った塚と伝えられてきました。
京都市の史跡案内では、この塚は上品蓮台寺塔頭真言院の墓地に残る源頼光塚とされ、昭和初めに千本鞍馬口西入から現在地へ移されたことも記されています。
現在地に昔から動かなかった遺構と断定せず、頼光伝説を伝える移設された塚として紹介します。
境内の一角にあり、案内は控えめ。参拝の際は寺の指示に従う必要がある。
葛城山(かつらぎさん)
古代の土蜘蛛の伝承地
葛城山の所在地:奈良県御所市・大阪府南河内郡(山域)
『日本書紀』神武天皇の巻に、この地の土蜘蛛を討ったという記事があります。葛の網を使って捕らえたことから葛城の名がついた、という由来まで記されています。
古代の記録に現れる土蜘蛛、つまり朝廷に従わなかった人々の側の伝承地にあたります。妖怪としての蜘蛛ではありません。
山中には土蜘蛛にまつわる塚と伝える場所が点在します。
登山道が整備されている。土蜘蛛の伝承は山麓の各所に分かれて伝わる。
土蜘蛛の正体と考えられているもの
土蜘蛛の正体を一つに決めることはできません。古代史料の呼称と中世以降の妖怪で意味が違うためです。
記紀・風土記では、中央に服属しない地方勢力が土蜘蛛と呼ばれます。これは記録した側の政治的な視点を含む表現であり、特定の民族や実在集団を現在の意味で「妖怪」と断定する材料にはなりません。
一方、絵巻・能・歌舞伎では、源頼光を病ませ、僧に化け、蜘蛛の糸で襲う怪異として造形されます。作品ごとに舞台や筋は異なります。土蜘蛛は「正体を暴けば一匹の生物になる妖怪」ではなく、古代の呼称が文学と芸能の中で姿を変えた存在です。
土蜘蛛をめぐる妖怪のつながり
土蜘蛛が登場する作品
能の『土蜘蛛』は、舞台上に大量の白い糸を投げる演出で知られます。妖怪の攻撃を、見える形にした演出として、能のなかでもとりわけ視覚的な演目です。
歌舞伎の『土蜘』もこの糸の場面を受け継いでいます。土蜘蛛は、糸という一点で舞台芸能に定着した妖怪といえます。
なお、都の武士が怪異を退ける話としては、源頼政が鵺を射落とした一件がしばしば並べて語られます。頼光ものと頼政ものは、同じ系統の物語として扱われます。
土蜘蛛が登場する古典芸能
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土蜘蛛についてよくある質問
土蜘蛛とは何ですか。
二つの意味があります。ひとつは源頼光を糸で襲った巨大な蜘蛛の妖怪、もうひとつは古代の記録で朝廷に従わなかった人々を指した蔑称です。
古代の土蜘蛛は本当に蜘蛛だったのですか。
違います。『古事記』『日本書紀』や風土記に現れる土蜘蛛は人の集団を指す言葉で、手足が長い、穴に住むといった描写はありますが、蜘蛛の姿とは書かれていません。
なぜ人を指す言葉が妖怪になったのですか。
蔑称であったことが忘れられ、「蜘蛛」という字面だけが残ったためと考えられます。討たれた土蜘蛛を葬った塚の伝承と結びついて、塚から化け物が出る話になりました。
土蜘蛛を退治したのは誰ですか。
妖怪としての土蜘蛛は源頼光です。このとき使われた太刀は以後「蜘蛛切」と呼ばれました。
土蜘蛛の塚はどこにありますか。
京都市北区の上品蓮台寺に源頼光朝臣塚が伝わります。掘り返すと祟るという言い伝えが付いています。
土蜘蛛と併せて覚えたい言葉・用語
風土記(ふどき)
奈良時代に各国が編んだ地誌。土蜘蛛の記述が多く残る。
蜘蛛切(くもきり)
頼光が土蜘蛛を斬ったとされる太刀の名。もとは膝丸と呼ばれた。
蓮台野(れんだいの)
京都北部にあった葬送の地。土蜘蛛草紙の舞台とされる。
葛城山(かつらぎさん)
能「土蜘蛛」の後場で、土蜘蛛の塚がある場所として設定される山。
土蜘蛛の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。