長野県安曇野に伝わる鬼。討たれて体を各所に分けて埋められたとされる。

Uenokami 「有明山神社(長野県安曇野市穂高有明)」 2004年 / CC BY-SA 3.0 出典
魏石鬼八面大王とはどんな妖怪か
魏石鬼八面大王は、体を分けて埋められた鬼です。安曇野に伝わります。
長野県の安曇野に伝わる伝説上の人物で、「八面大王」は魏石鬼の別の呼び名とされます。旧南安曇郡穂高町大字有明を中心に、周辺の市町村へ広く伝えられてきました。
『仁科濫觴記』には、有明山の麓にこもった盗賊の集団が、山を出るときに顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗ったと記されます。ここでは一人の鬼ではなく、八人の首領を戴く集団の自称です。
一方、松本藩の地誌『信府統記』では、中房山に住み神社仏閣を壊して人々を悩ませた鬼賊とされます。
ただし、坂上田村麻呂が討ったという形は江戸時代以降に付け加わったもので、史実に基づかないことが明らかになっています。
魏石鬼八面大王の漢字表記と読み方
読みは「ぎしきはちめんだいおう」とされます。
ただし、注意すべき点があります。
出典となった『信府統記』に読み仮名がないため、正式な読み方は分かっていません。
「魏石鬼」は「義死鬼」とも書かれます。穂高神社の縁起ではこちらの字です。
「八面大王」については、「やめのおおきみ(八女大王)」と読んで、福岡県八女の古代豪族磐井とのつながりを考える見方もあります。
『仁科濫觴記』での「八面鬼士大王」は、盗賊たちが山を出るときに顔を色とりどりに塗って名乗ったものとされます。
顔が八つあるのではなく、八人の首領がいたことに由来するという読み方が、この記録からは可能です。
魏石鬼八面大王(ぎしきはちめんだいおう)
もっとも詳しい形の呼び名。
八面鬼士大王(はちめんきしだいおう)
『仁科濫觴記』での自称。
義死鬼(ぎしき)
穂高神社の縁起での書き方。
魏石鬼八面大王の姿と特徴
八面大王の姿については、伝えによって大きく異なります。
『仁科濫觴記』では … 顔を色とりどりに塗った盗賊の集団。八人の首領がいた。
『信府統記』では … 中房山に住み、神社仏閣を破壊し民家を焼いた鬼賊。
穂高神社の縁起では … 光仁天皇のころ暴威を振るった東夷。
どの記録も、姿かたちを具体的に描いてはいません。
顔が八つある鬼として描かれることがありますが、これは名前からの連想です。『仁科濫觴記』を読めば、八という数は首領の人数を指しています。
一方で、体については具体的な伝えがあります。
耳 … 耳塚に埋められた。
胴体 … 大王神社・大王社に埋められた。
足 … 立足地区に埋められた。
首 … 松本市の筑摩神社に首塚がある。
姿は伝わらないのに、体の各部を埋めた場所だけが土地に残っているという、珍しい形をしています。
魏石鬼八面大王の伝承物語
『仁科濫觴記』が記す盗賊の集団
八面大王伝説のもとになったと考えられているのが、『仁科濫觴記』の記述です。
この記録の特徴は、次の四点にあるとされます。
一つ … おとぎ話的な要素を含まない。
二つ … 実際に見たかのように詳しい。
三つ … 歴史のうえで筋が通っている。
四つ … 部分的に典拠も示されている。
ここでは「八面大王」という個人ではなく、八人の首領を戴く盗賊集団、あるいはその首領の自称として「八面鬼士大王」の名が登場します。
話の概略はこうです。
神護景雲の末から宝亀年間にかけて、民家や倉庫から雑穀や財宝を盗む事件が起きました。宝亀八年の秋に調べたところ、有明山の麓に盗賊集団の居場所が見つかります。
八人の首領が顔を塗って現れる
やがて盗賊たちは中房川の奥にこもり、八人の首領をもつ集団になりました。山から出るときは顔を色とりどりに塗り、「八面鬼士大王」を名乗って強盗を働きます。
これを憂いた仁科和泉守は、家臣を都に遣わして討伐の宣旨を求めました。
延暦八年二月、朝廷から討伐命令が下ります。田村守宮を大将とし、総勢二百名ほどで偵察を行い、作戦を立てました。
夜明けとともにほら貝を吹き、鬨の声をあげながら一気に山を下ります。寝起きを襲われた盗賊団は驚いて四散しました。
そして、降伏を勧める言葉がかけられます。
死罪から耳そぎへ、そして私刑へ
『仁科濫觴記』の話には、続きがあります。
大将の田村は、盗賊たちに向かって大声で言いました。
罪は重いが、これまで人命は奪っていない。速やかに降参すれば命だけは助けよう、と。
盗賊団はしばらく顔を見合わせた後、長老が進み出て太刀を投げ出し、両手をつきました。そして「私の命はともかく、手下たちの命はお助け下さい」と言います。
抵抗を受けることなく、全員が縄にかけられ、城に連行されました。
合議によって、長老一人を死罪とし、残りは耳をそいで追放することが決まります。
ところが、村の被害者たちが「私刑にしたいので引き渡してほしい」と嘆願に来ました。
死罪から両耳そぎへ
これを切っ掛けに、もう一度合議が行われ、長老の死罪は許されます。かわりに八人の首領を同罪として両耳そぎ、残りの手下は片耳そぎと改められました。
耳そぎの執行の日、田村守宮は罪状と判決を述べた後、立ち去りました。
役人が耳をそぎ出すと、恨みある村人が我も我もと争い、七十人あまりの耳そぎが執行されます。
そがれた耳は、血に染まった土砂とともに塚に埋められ、耳塚となりました。
八人の首領は、恨みを持った村人たちによって山の方へ連れて行かれ、掘った大穴に突っ込まれた後、石積みにされて殺されます。
そのためこの場所を「八鬼山」と呼ぶようになったと伝えられます。
なお追放された手下たちは、のちに許され、土地と扶持を与えられて開墾を奨励されたといいます。
坂上田村麻呂が討ったという形は後から付いた
現在、安曇野で伝えられている八面大王伝説は、三つの要素から成り立っています。
鬼伝説
坂上田村麻呂伝説
動物報恩譚
このうち動物報恩譚は、明治時代以降に児童文学者を中心に取り上げられたもので、本来の八面大王伝説にはなかった要素です。
そして坂上田村麻呂伝説も、江戸時代以降に鬼伝説に付け加わった要素です。
享保九年成立の『信府統記』が、次第に八面大王伝説の初出文献、または基本文献と考えられるようになりましたが、もともと坂上田村麻呂伝説とは無縁な話でした。
『信府統記』の記述には、はっきりした難点があります。
歴史上の人物である坂上田村麻呂と藤原利仁が混同されていること。
田村麻呂に征夷の史実がない
そして決定的なのは、坂上田村麻呂には延暦二十年の遠征以降、征夷の史実がないという点です。
さらに文中には「云々」「とかや」という伝聞の言い方が散見され、史実としての信頼性を疑わせます。
では、なぜ田村の名が入ったのか。
『仁科濫觴記』で盗賊団を捕えた大将は「田村守宮」でした。この「田村」が、征夷で著名な坂上田村麻呂の「田村」と混同され、さらに藤原利仁とも混同される形で、さまざまな伝説として残ったのではないか。
在野の郷土歴史家・仁科宗一郎による、この考察が知られています。
なお八面大王については、民に貢を強いる田村麻呂に立ち上がった英雄とみる見方と、民に迷惑をかけた鬼とみる見方の二通りがあります。
魏石鬼八面大王の伝承地域
八面大王のゆかりの地は、長野県安曇野市を中心に散らばっています。
魏石鬼窟 … こもったとされる岩屋。穂高有明。
耳塚 … 耳を埋めたとされる塚。穂高有明。
大王神社・大王社 … 胴体を埋めたと伝える場所。
立足地区 … 足を埋めたと伝える場所。
筑摩神社 … 首塚がある。松本市。
合戦沢 … 中房温泉の近く。戦ったとされる場所。
体の各部を別々の場所に埋めたと伝える点が、この伝説の特徴です。
姿は伝わらないのに、埋めた場所だけが土地に残っています。
魏石鬼窟(ぎしきのいわや)
八面大王がこもったとされる岩屋
魏石鬼窟の所在地:長野県安曇野市穂高有明
八面大王がたてこもったと伝えられる岩屋です。
『信府統記』は、中房山の北、有明山の麓の宮城に「魏石鬼ヶ窟」があると記しています。
討伐に対抗するためにこもった場所とされます。
近くの中房温泉のそばには、戦ったとされる「合戦沢」もあります。
岩屋がいつからそう呼ばれたかは分かっていません。
耳塚(みみづか)
耳を埋めたと伝える塚
耳塚の所在地:長野県安曇野市穂高有明
八面大王の耳を埋めたと伝えられる塚です。
『仁科濫觴記』では、耳そぎの刑を受けた七十人あまりの耳が、血に染まった土砂とともにここに埋められたとされます。
討ち取った夷賊らの耳を埋めた場所として『信府統記』にも記されています。
安曇野には、このほか胴体を埋めたという大王神社・大王社、足を埋めたという立足地区があります。
塚の年代を示すものはありません。
魏石鬼八面大王の正体と考えられているもの
八面大王の正体については、次のように考えられています。
盗賊の集団とする見方が、もっとも古い記録に沿ったものです。『仁科濫觴記』では、八人の首領を戴く盗賊集団の自称が「八面鬼士大王」でした。八という数は、顔の数ではなく首領の人数を指しています。
安曇野の開発にともなって生まれた鬼伝説とする見方もあります。この地域の農耕の開発にともなって生成した鬼伝説が、周辺に広く流布して現在の形に成長したとされます。
英雄とする見方があります。坂上田村麻呂の北征の際、途上の信濃の民に貢を強いるのを見かねて立ち上がった、というものです。
鬼とする見方もあります。民に迷惑をかけていた者を、田村麻呂が北征の途上で征伐した、というものです。
田村麻呂伝説は後の世に育った物語です。 坂上田村麻呂には延暦二十年の遠征以降、征夷の史実がありません。『信府統記』では田村麻呂と藤原利仁が混同されてもいます。
「田村守宮」との名の混同から生じたとする考察が、この点を説明しています。在野の郷土歴史家・仁科宗一郎による見方です。
福岡県八女の磐井とのつながりを考える見方もあります。「やめのおおきみ」と読む説にもとづくものです。
魏石鬼八面大王をめぐる妖怪のつながり
魏石鬼八面大王が登場する作品
八面大王は、土地に強く根を張った鬼です。
作品での知名度はさほど高くありませんが、安曇野には体の各部を埋めたと伝える場所が数多く残り、足湯や農場の名にもその名が使われています。
姿の伝わらない鬼が、地名と塚によって記憶されてきました。
近年は、田村麻呂伝説が後から付いたものであることが明らかになったため、『仁科濫觴記』にもとづく盗賊集団としての姿にも関心が向けられています。
魏石鬼八面大王が登場する書物
仁科濫觴記
八人の首領を戴く盗賊集団として記します。もっとも具体的な記録です。
信府統記
松本藩の地誌。中房山の鬼賊が田村将軍に討たれたと記します。
穂高神社の縁起
光仁天皇のころ義死鬼という東夷が暴威を振るったと伝えます。
魏石鬼八面大王が登場するそのほか
安曇野の各地に残る伝承地
耳塚・大王神社・立足など、体の各部を埋めたと伝える場所が残ります。
魏石鬼八面大王が登場する漫画・アニメ
各地の鬼を扱う各種の作品
信濃の鬼として、酒呑童子や大嶽丸と並べて紹介されることがあります。
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魏石鬼八面大王についてよくある質問
魏石鬼八面大王とは何ですか。
長野県の安曇野に伝わる伝説上の人物です。「八面大王」は魏石鬼の別の呼び名とされます。旧南安曇郡穂高町大字有明を中心に、周辺の市町村へ広く伝えられてきました。
顔が八つあるのですか。
『仁科濫觴記』を読むかぎり、八という数は顔の数ではなく首領の人数を指します。八人の首領を戴く盗賊集団が、山を出るときに顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗ったと記されています。
坂上田村麻呂に討たれたのですか。
そう伝えられています。後の世に育った物語です。坂上田村麻呂には延暦二十年の遠征以降、征夷の史実がなく、田村麻呂伝説は江戸時代以降に鬼伝説へ付け加わった要素であることが明らかになっています。
なぜ田村の名が入ったのですか。
『仁科濫觴記』で盗賊団を捕えた大将の名が「田村守宮」だったためとみられます。この「田村」が坂上田村麻呂の「田村」と混同され、さらに藤原利仁とも混同されたと考察されています。
ゆかりの場所はありますか。
あります。長野県安曇野市穂高有明の魏石鬼窟と耳塚、胴体を埋めたと伝える大王神社・大王社、足を埋めたという立足地区、松本市の筑摩神社の首塚などです。
魏石鬼八面大王と併せて覚えたい言葉・用語
仁科濫觴記(にしならんしょうき)
八面鬼士大王を名乗る盗賊集団の討伐を記す。八面大王伝説のもとと考えられている。
信府統記(しんぷとうき)
享保九年成立の松本藩の地誌。田村将軍が鬼賊を討ったと記す。
耳塚(みみづか)
安曇野市穂高有明の塚。そがれた耳を埋めたと伝えられる。
田村守宮(たむらもりみや)
『仁科濫觴記』で盗賊団を捕えた大将。田村麻呂との混同のもととされる。