三途の川の岸で亡者の衣を剥ぐ老婆。もとは境の石に爺と並んで祀られていた。

奪衣婆とはどんな妖怪か
奪衣婆はひとことで言えば三途の川の関守です。
死者が渡る川の岸に関を据え、通る亡者の衣類を剥ぎ取ります。木像は恐ろしい顔をした老婆の姿で、いまも各地の寺に祀られています。
ただし、この婆にはもともと連れ合いがいました。経の上では爺と並んで記されているのに、彫られたのは婆のほうばかりです。忘れられたのは、爺のほうでした。
そして江戸では、この恐ろしい顔の像に子どもの病気を相談しに行く人が絶えませんでした。
奪衣婆の漢字表記と読み方
読みは「だつえば」です。
「三途河」は、もとは「そうず(界)」、つまり境という日本語でした。柳田国男は、仏教の言葉が先にあったのではないと書いています。
境を意味する場所は、富士山などの霊山の登り口や大きな社への道に必ずあり、精進川と書かれました。参詣する人はそこで身を清めます。関を守る神が、後に地獄の川の鬼婆になりました。
奪衣婆(だつえば)
寺で用いられる呼び方。
三途河の婆(そうずかのばば)
柳田国男が民間の呼び方として記した形。
関のおば様(せきのおばさま)
江戸で参詣された際の呼び方。
奪衣婆の姿と特徴
こわい顔をした老婆の姿で、木像として寺に祀られます。
ただし、この顔つきは最初からのものではありません。柳田は、逢阪の関にあった百歳堂の像を例に挙げ、いまは短冊と筆を持つ老女の姿だが、以前はもっと恐ろしい顔をした石の像であり、その前はただの天然の石であったかもしれないと書いています。
奪衣婆の伝承と変遷
境の石に、爺と婆が並んでいた
関東地方の道祖神には、石に男と女の像を彫ったものが多くあります。
姥石のほうにも、もとは爺石と二つ並んだものがたくさんありました。「せき」は塞き留めるという意味です。村の外から入ってくるものを、そこで止める。境を守る神でした。
上総の関村には姥石があり、京都から近江へ越える逢阪の関の百歳堂も姥神らしいと柳田国男は書いています。
ところが、人が婆様ばかりを大切にするようになります。
人が婆様ばかりを大切にするようになって、二つの石はだんだん仲が悪くなりました。
十王経が三途河に関を据える ─ 婆鬼と翁鬼
閻魔信仰が盛んになると、三途河の婆の木像が方々の寺に祀られるようになりました。
地獄の途中の三途河という川の岸に関をすえて、この世から行く悪い亡者の、衣類を剥ぎ取るというので有名になっております。
『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』という、日本で作られた経がこれを詳しく書いています。柳田はそこを読んで、はっきりこう記しました。奪衣婆は後家ではない。
爺のほうの名は懸衣翁といいます。
婆鬼は盗業を警めて両手の指を折り、翁鬼は無義を悪んで頭足を一所に逼む
婆だけが木像になる
経の上では夫婦のように並んでいます。それでも、寺で彫られたのは片方だけでした。
木像は大抵婆の方ばかりを造ってありました。
こうして姥神は一人になり、その顔は次第に恐ろしくなっていきます。
柳田は、逢阪の関の百歳堂の像を例に挙げます。いまは短冊と筆を持つ老女の姿ですが、以前はもっと恐ろしい顔をした石の像であり、その前はただの天然の石であったかもしれない、と。
境を守る一対の石が、地獄の川べりに立つ一人の鬼婆へ変わりました。
江戸で豆炒りを供える ─ 市内に数十箇所
江戸で関のおば様に豆炒りを供えるようになったころから、市内の寺に数十箇所の木像の婆様ができました。
盆になると、いまでもあちこちで参詣する人がいると柳田国男は書いています。
奇妙なのは、参る中身です。石の婆の像のところへ、人は子どもの病気を相談しに行きました。衣を剥ぐ地獄の鬼に、子の無事を願う。
境を塞ぐ神であった頃の役目が、名前の中にだけ残っていたのだと柳田は見ます。「せきのおば様」という古い名だけが残り、なぜそこへ行くのかは分からなくなっていました。
甘酒はないかと入ってくる ─ 疫病神になった婆
流行り病が盛んな時期には、恐ろしい顔をした婆が家に入ってきたという話が増えました。
甘酒婆といって、甘酒はないかといいながらはいって来る婆が、疫病神だなどというひょうばんもよく行われました。
戸口に立って一言そう尋ねる。それだけで、その家に病が入ります。
子を持つ親は、そういうとき急いでどこかの婆神へ参りました。柳田国男は、関のおば様が江戸で評判になった始まりを、質の悪い感冒が流行った年だろうと見ています。
病を防ぐために参る相手と、病を運んでくる相手が、同じ顔をしていました。
奪衣婆の伝承地域
柳田国男が挙げた姥堂は、尾張の熱田(熱田神宮の精進川に架かる御姥子橋のたもと)と、奥州外南部の正津川村です。正津川村の姥堂には柳田自身が参詣しています。
境の姥神としては、上総の関村の姥石、京都から近江へ越える逢阪の関の百歳堂が挙げられています。
明了山 正受院(めいりょうざん しょうじゅいん)
「綿のおばば」と呼ばれる奪衣婆像のある寺
明了山 正受院の所在地:東京都新宿区新宿2-15-20
文禄3年(1594年)の創建です。
像高70センチメートルの木造坐像で、頭から肩に綿をかぶるため綿のおばばと呼ばれます。
咳止めに霊験があるとして、嘉永2年(1849年)ごろ江戸中から参詣人を集めました。
奪衣婆の正体と考えられているもの
奪衣婆は、境の神が地獄へ移された姿です。
もとは道の境で塞ぎ守る石の一対でした。そこへ十王経の関が重ねられ、爺が落ちて婆だけが残り、顔が恐ろしくなり、やがて流行り病を運ぶ者にもなります。
衣を剥ぐという役目より、剥がれていったのは爺のほうでした。
奪衣婆をめぐる妖怪のつながり
奪衣婆が登場する作品
奪衣婆は、三途の川の関所にいます。
死者から衣を剥ぎ取り、傍らの懸衣翁がそれを衣領樹の枝へ掛ける。 枝の垂れ具合で、生前の罪の重さが量られます。
江戸では奪衣婆信仰が広がり、咳や子どもの病に効くとして祀られた例もあります。地獄の関所番が、町の人の願いを聞く側へ回りました。
奪衣婆が登場する妖怪画
奪衣婆が登場する古典
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奪衣婆についてよくある質問
奪衣婆とは何をする存在ですか。
三途の川の岸に関を据え、渡ってくる亡者の衣類を剥ぎ取るとされます。日本で作られた『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』に、この役目が詳しく書かれています。
奪衣婆に夫はいますか。
います。『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』には懸衣翁という爺の名が記されています。ただし木像はほとんど婆のほうだけが作られました。
なぜ子どもの病気を奪衣婆に願うのですか。
柳田国男は、もとが境を守る「関」の神であったためだと見ています。江戸で関のおば様に豆炒りを供える風が広まり、流行り病の年に評判になったと推測しています。
三途河という名前の由来は何ですか。
柳田国男は、日本語の「そうず(界)」つまり境を指す言葉に、後から漢字が当てられたものだと説明しています。霊山の登り口にある精進川も同じ言葉だとします。
奪衣婆と併せて覚えたい言葉・用語
懸衣翁(けんねおう)
十王経に記された奪衣婆の相方。翁鬼として並び記されるが、木像はほとんど作られなかった。
姥神(うばがみ)
境や峠に祀られた老女の神。もとは爺神と一対で石として祀られた。
精進川(しょうじがわ)
霊山の登り口や社への道にある川。参詣者が身を清めた境の場所。
奪衣婆の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。