名人に使われた三味線が打ち捨てられ、妖怪となったもの。

鳥山石燕 「百器徒然袋 三味長老」 1784年 / パブリックドメイン 出典
三味長老とはどんな妖怪か
三味長老は、三味線の妖怪です。鳥山石燕の『百器徒然袋』(1784年)にあります。
絵では、白い頭巾をかぶった者が、三味線の胴を体にして座っています。書見台に開かれた本があり、その前で読んでいるようにも見えます。
石燕の解説文は、こう述べます。
是はこの芸にかんのうなる人の、此みちに長たるものと用ひられし、その人の器の精なるべし。
この芸に堪能な人が、この道の長たる者として用いた、その人の器の精であろう。
つまり、名人が使っていた三味線です。
それが打ち捨てられ、妖怪になったと考えられています。
書き出しには、諺が引かれます。沙弥から長老にはなられず。
三味長老の漢字表記と読み方
読みは「しゃみちょうろう」です。
三味線を「しゃみ」と略すことがあります。そして「沙弥」も「しゃみ」です。
沙弥(しゃみ)とは、仏門に入って間もない僧のことです。
長老は、その反対にある位です。
そして、諺があります。
沙弥から長老にはなられず。
順序を踏まずに、いきなり上位にはなれないという意味です。
石燕は、この諺を解説文の書き出しに引きました。
「しゃみ」から「ちょうろう」へ。
三味線が、長老になっています。 諺が言うところの、あってはならない飛び越しです。
三味長老(しゃみちょうろう)
鳥山石燕『百器徒然袋』での表記。
沙弥(しゃみ)
名の掛詞となる語。仏門に入って間もない僧を指す。
シャミチョウロウ(しゃみちょうろう)
カタカナで書くこともある。
三味長老の姿と特徴
石燕の描く三味長老は、次のような姿です。
頭 … 白い頭巾をかぶる。目と口がある。
体 … 三味線の胴。撥のような形の裾が広がる。
姿勢 … 座り、書見台に向かう。
書見台 … 本が開かれている。
足元 … 開かれた本がもう一冊。撥。
顔は、ひどく落ち着いています。
目を細め、口を結んでいます。 騒がしいところがありません。
三味線の胴が、そのまま衣の膨らみになっています。弦も棹も、描かれていません。
楽器であることを、ほとんど示していません。
そばに置かれた撥が、唯一の手がかりです。
書見台に向かう姿は、まさに長老です。
三味長老の伝承物語
沙弥から長老へ
三味長老の名は、諺から来ています。
沙弥から長老にはなられず。
順序を踏まずに、いきなり上位にはなれないという意味です。
沙弥(しゃみ)は、仏門に入って間もない僧。長老は、その反対にある位です。
そして、「しゃみ」は三味線の略でもあります。
石燕は、この掛詞を使いました。
三味線を「しゃみ」と読み、それを「長老」に繋げる。
諺があってはならないと言っていることを、そのまま名前にしています。
沙弥は長老になれない。しかし三味は長老になった。
石燕の言葉遊びは、しばしばこういう形をとります。否定されているものを、実現してみせます。
徒然草第百三十四段
三味長老には、もう一つの下敷きがあります。
『徒然草』第百三十四段にある、三昧僧の話です。
そこにある一句が引かれています。
不堪(ふかん)の藝〔堪能ならぬ藝〕をもちて堪能の座〔上手な者ばかりの一座〕に連なり
技量の足りない者が、堪能な者の席に連なる。
同じ段は、鏡に映る自分の顔から始まります。
我が貌(かたち)の醜くあさましき事を、餘りに心憂く覺えて、鏡さへうとましき心地しければ
これも、身の丈に合わない席に着くという話です。
「沙弥から長老にはなられず」と、同じことを言っています。
そして、石燕の解説文は逆を書きます。
この三味線は、この芸に堪能な人が、この道の長たる者として用いたものだと。
本物の名人が使った器である。 だから、長老を名乗る資格がある。
諺と『徒然草』の両方を踏まえたうえで、それをひっくり返しています。
打ち捨てられた名器
三味長老の由来は、はっきりしています。
かつて名人に使われていた三味線が打ち捨てられ、妖怪化したもの。
「その人の器の精なるべし」。 石燕はそう書きました。
「器」とは、道具であり、同時に器量でもあります。
名人が使った道具には、その人の器が移る。
そして、その名人はもういません。
道具だけが残り、打ち捨てられました。
水木しげるの著作では、沙弥が長年の末に長老になるのと同じくらい歳月を経た三味線が、付喪神となったものと解説されています。
歳月が、位を与えます。
三味長老の落ち着いた顔は、そのためかもしれません。
三味長老の伝承地域
三味長老には、訪ねられる伝承地がありません。
石燕が『百器徒然袋』に描いた妖怪であり、土地の言い伝えとして採られたものではないためです。
解説文にある「この芸に堪能な人」が誰であるかも書かれておらず、場所を特定する手がかりはありません。
碑も祠も、この名では見つかっていません。
無い場所を、あるように書くことはしません。この欄は空のままにしてあります。
三味長老の正体と考えられているもの
三味長老の正体については、次のように整理できます。
一つめは、名人の三味線です。石燕は、この芸に堪能な人が、この道の長たる者として用いた、その人の器の精であろうと書きました。それが打ち捨てられ、妖怪化したと考えられています。
二つめは、諺の掛詞です。「沙弥から長老にはなられず」の「沙弥」と「三味線」の「しゃみ」を掛けたものです。諺が否定していることを、そのまま名前にしています。
三つめは、『徒然草』です。第百三十四段の「不堪の芸を持ちて堪能の座に列り」から発想されたとみられます。
四つめは、付喪神です。水木しげるは、沙弥が長年の末に長老になるのと同じくらい歳月を経た三味線が付喪神となったものと解説しています。
三味長老は、伝承として語られてきた妖怪ではありません。 石燕が諺と『徒然草』から仕立てた一体と考えられています。
三味長老をめぐる妖怪のつながり
三味長老が登場する作品
三味長老は、諺と『徒然草』を下敷きにした絵です。
「沙弥から長老にはなられず」を知っていることが、この名を読む前提になっています。 『百器徒然袋』全体が、この本と当時の言葉遊びで組まれています。
そのため、資料は石燕の絵と、その典拠にあたるものが中心になります。
三味長老が登場する古典
百器夜行
月岡芳年、1865年の錦絵。三味長老を参考にしたとみられる絵があります。
三味長老が登場する研究
三味長老が登場する漫画・アニメ
妖怪をまとめて扱う作品
器物の妖怪として、琵琶牧々と並べて取り上げられます。
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三味長老についてよくある質問
三味長老とはどんな妖怪ですか。
三味線の妖怪です。石燕は、この芸に堪能な人が、この道の長たる者として用いた、その人の器の精であろうと書いています。名人が使った三味線が打ち捨てられ、妖怪化したものと考えられています。
「沙弥から長老にはなられず」とは何ですか。
順序を踏まずに、いきなり上位にはなれないことを意味する諺です。「沙弥」(仏門に入って間もない僧)と「三味線」の「しゃみ」を掛けたものが、この妖怪の名です。
『徒然草』とどう関係がありますか。
第百三十四段にある三昧僧の話が下敷きとされます。「不堪の芸を持ちて堪能の座に列り」という一句があり、技量の足りない者が堪能な者の席に連なるという話です。
なぜ落ち着いた顔なのですか。
長老だからでしょう。 絵では書見台に向かって座り、目を細め、口を結んでいます。水木しげるは、沙弥が長老になるのと同じくらい歳月を経た三味線と解説しています。
三味長老と併せて覚えたい言葉・用語
沙弥(しゃみ)
仏門に入って間もない僧。三味線の「しゃみ」と掛けられる。
撥(ばち)
三味線を弾くための道具。三味長老の絵の足元に描かれる。
不堪の芸(ふかんのげい)
技量の足りない芸。『徒然草』第百三十四段にある語。