夜の海で船を乗り越えていく、途方もなく長い怪魚。あとに残る大量の油を汲まねば船は沈む。

鳥山石燕 「今昔百鬼拾遺 あやかし」 1781年 / パブリックドメイン 出典
イクチとはどんな妖怪か
イクチはひとことで言えば、船を乗り越えていく長すぎる魚です。
津村淙庵の『譚海』、根岸鎮衛の『耳袋』など、江戸時代の随筆に記述があります。
全長はとてつもなく長く、夜になると船を乗り越えてきます。ところがあまりに長いため、一刻か二刻、あるいは二、三日もかけて、やっと船を越え終わるといいます。
そして、あとには大量の油を残していきます。
この油を汲み出さないと、船は沈んでしまうとされました。
鳥山石燕が『今昔百鬼拾遺』に「あやかし」の名で描いた巨大な海蛇も、添え書きの内容が一致することから、このイクチを描いたものとされています。
襲うのでも、食うのでもありません。ただ通り過ぎていく。 そこがこの怪異の恐ろしさです。
イクチの漢字表記と読み方
読みは「いくち」です。『耳袋』では「いくじ」の名で述べられています。
『耳袋』には興味深い記述があります。「いくじなき」という言い方は、この「いくじ」が由来だとされているというのです。
「意気地がない」の「いくじ」と、海の怪魚の「いくじ」を結び付ける説明です。
もっとも、これは江戸時代の書物に記された民間の語源説にとどまります。
石燕は同じものを「あやかし」の名で描きました。
ただし「あやかし」という名称は、あらゆる海の怪異を指す大雑把な総称にすぎません。 特定の一種を指す名ではないことに注意が要ります。
イクチ(いくち)
最も広く用いられる表記。
ゐくち(いくち)
『譚海』における表記。
いくじ(いくじ)
『耳袋』における名。
イクチの姿と特徴
姿は、記録によって少しずつ違います。
長さ … 数百丈に及ぶとされます。百丈はおよそ三百三十三メートルです。
太さ … さほどでもないといいます。
色 … 『耳袋』は、色が鰻のようだと記します。
残すもの … 粘り気のある油。船の甲板を覆います。
『譚海』によれば、夜のみにしか見られたためしはなく、船をよじり越えて長い時間をかけて通過していきます。
体表からは粘着質の油が大量に染み出し、乗られた船はこれを汲み取らないと沈没してしまいます。
その油はフノリのような状態で、甲板はぬるぬるとなり、前にも後ろにも歩きづらくなるといいます。
『耳袋』では、船の舳先などに引っかかり、二、三日もそこでうごめいているとされます。
石燕の絵では、巨大な海蛇の姿で描かれています。
イクチの伝承物語
譚海が伝える常陸の沖
『譚海』は、津村淙庵による江戸時代の随筆です。
そこでは「ゐくち」の名で、常陸国、いまの茨城県の沖にいた全長の長い怪魚とされています。
夜にしか見られたためしはありません。船をよじり越えて、長い時間をかけて通過していきます。
体表からは粘着質の油が大量に染み出します。乗られた船は、これを汲み取らないと沈没してしまうのです。
その油は「フノリ」のような状態だといいます。フノリとは、海藻から作る粘り気のある糊のことです。
三時間かけて船を越えていく
後には甲板がぬるぬるとなり、前にも後ろにも歩きづらくなります。
太さはさほどでもないものの、体長が数百丈にも及ぶため、通過するのに一刻から二刻、三時間近くもかかるといいます。
この記述の恐ろしさは、具体的なところにあります。
何が起きるかがはっきりしています。長いものが船を越えていく。油が残る。汲まなければ沈む。
やるべきことは分かっているのに、終わりが見えない。それが三時間続くのです。
耳袋が伝える別の姿
『耳袋』は、根岸鎮衛による随筆です。ここでは「いくじ」の名で述べられています。
西海や南海に時おり現れ、船の舳先などに引っかかり、二、三日もそこでうごめいているとされます。
色は鰻のようで、体は長いといいます。
『譚海』が常陸国の沖とするのに対し、『耳袋』は西海や南海とします。時間も、一刻二刻ではなく二、三日です。
同じものを指しているのか、別のものなのかは分かりません。
八丈島で見つかった小さな個体
『耳袋』の著者は、さらに興味深い聞き書きを残しています。
ある人物から、この「いくじ」の小さい個体が豆州八丈、いまの東京都八丈島の海で見つかったと聞いたというのです。
それは「鰻状のものだが、目や口がなく、輪のように丸まる」ものだったといいます。
そこから著者は、こう考えました。大きな個体も船の舳先に垂れ下がるのではなく、実際は輪が丸くなって回転しているのではないか、と。
見聞をもとに、仕組みを推し量ろうとしています。
石燕のあやかし
鳥山石燕は『今昔百鬼拾遺』で「あやかし」の名を付け、巨大な海蛇を描いています。
その添え書きによれば、西国の海上に現れて船に乗りあがり、この「長いもの」が船を越えきるまで二、三日もかかるといいます。
おびただしい量の油を出し、船員がこれを汲み干せば大事に至らないが、それをしなければ沈没するとされます。
描写がイクチの記録と一致するため、この絵は実際にはイクチを描いたものだと考察されています。
絵になって姿を得た
ただし、注意すべき点があります。
「あやかし」という名称は、あらゆる海の怪異を指す大雑把な総称にすぎません。
特定の一種の名ではないのです。石燕がこの名を選んだのは、海の怪異という広い枠でこの絵を出したかったからかもしれません。
いずれにせよ、絵として残ったことの意味は大きなものでした。
文字だけの記録であれば、これほど知られることはなかったでしょう。石燕の絵によって、イクチは目に見える姿を得ました。
油を汲み出さねば船は沈む
イクチの記録で最も具体的なのが、油です。
体表から染み出す粘り気のある油が、船の甲板に大量に残ります。これを汲み出さなければ船は沈む。
この一点だけは、どの記録も一致しています。
なぜ油なのか。考えられることがいくつかあります。
まず、実際に海の生き物には粘液を出すものが多くいます。ヌタウナギのように、大量の粘液を出す種も知られています。
汲むことしかできない
次に、船乗りにとって甲板が滑ることは深刻な問題です。前にも後ろにも歩きづらくなるという記述は、実際の危険を写しています。
そして、重さです。大量の液体が甲板に溜まれば、船は不安定になります。汲み出さなければ沈むという説明には、理屈が通っています。
イクチの話は、怪異でありながら実務的です。
姿を見ても逃げようがありません。できるのは、油を汲み出すことだけです。
やるべきことを教えてくれる怪異。船乗りたちが語り継いだ理由は、そこにあったのかもしれません。
イクチの伝承地域
イクチは、海に現れるものとされ、書物によって海域が異なります。
『譚海』は常陸国の沖、いまの茨城県沖とします。『耳袋』は西海や南海に時おり現れるとし、小さい個体が豆州八丈、いまの東京都八丈島の海で見つかったと記します。
石燕は「西国の海上に現れて」としています。
つまり、東の海とも西の海とも記されており、一つの海域に定まっていません。
いずれも書物に記された海域にとどまり、碑や祠は残っていません。
この怪異をたずねて行ける場所はありません。
常陸沖(ひたちおき)
譚海が伝えるイクチの現れた海
常陸沖の所在地:茨城県
『譚海』は、イクチを常陸国の沖にいた全長の長い怪魚としています。
夜にしか見られたためしはなく、船をよじり越えて、一刻から二刻もかけて通過していったといいます。
体表から染み出した油が甲板に残り、汲み取らなければ船は沈むとされました。
イクチにゆかりの碑や祠は確かめられませんでした。
随筆に記された海域であり、目印になるものはありません。
八丈島(はちじょうじま)
小さい個体が見つかったとされる海
八丈島の所在地:東京都
『耳袋』の著者は、この島の海でイクチの小さい個体が見つかったと聞いたことを記しています。
それは「鰻状のものだが、目や口がなく、輪のように丸まる」ものだったといいます。
この聞き書きから、著者は大きな個体も輪になって回転するのではないかと推し量りました。
現地に伝承を示すものは確かめられませんでした。
随筆に記された聞き書きであり、裏付けは取れていません。
イクチの正体と考えられているもの
イクチの正体については、次のような見方があります。
未確認の巨大な生き物とする説があります。石燕の描いた姿が、海に棲むとされる長大な未知の生き物の姿と似ていることから指摘されるものです。
巨大なウミヘビの一種とする仮説もあります。怪魚ではなく、まだ知られていないウミヘビだとするものです。
頭足類とする説もあります。石燕の絵の「長いもの」を触手ととらえ、巨大なタコやイカの化け物とされる西洋の伝説が江戸に伝わったのではないかとする考察です。
溺死者の霊とする俗信もあります。海で溺れ死んだ人々の魂が集まったもので、仲間を道連れにしようとしているのだという指摘です。
実際の粘液を出す生き物によるとする見方もできます。油という具体的な記述は、実在の生き物の性質を思わせます。
どれか一つに決めることはできません。 ただ、どの説も「長い」という一点を説明しようとしていることは共通しています。
イクチをめぐる妖怪のつながり
イクチが登場する作品
イクチは、石燕の絵によって知られるようになった怪異です。
『譚海』や『耳袋』の記述は、いずれも随筆のなかの一項目にすぎません。文字だけであれば、これほど広まらなかったはずです。
石燕が「あやかし」の名で描いた巨大な海蛇の絵が、この怪異に目に見える姿を与えました。
ただし「あやかし」は海の怪異全般を指す総称で、イクチはそのうちの一つにあたります。
絵と名がずれたまま伝わってきたことも、この怪異の面白いところです。
イクチが登場する書物
イクチが登場する絵
イクチが登場する漫画・アニメ
妖怪を扱う各種の作品
海に現れる長大な生き物として、繰り返し取り上げられています。
イクチが登場するゲーム
海の怪異を扱う作品
石燕の「あやかし」の絵をもとにした姿で登場することがあります。
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イクチについてよくある質問
イクチとは何ですか。
江戸時代の随筆『譚海』『耳袋』に記された海の妖怪です。全長がとてつもなく長く、夜になると船を乗り越えていきます。あとに大量の油を残し、これを汲み出さないと船は沈むとされました。
どのくらいの長さですか。
『譚海』では体長が数百丈に及ぶとされます。百丈はおよそ三百三十三メートルです。太さはさほどでもないものの、船を通過するのに一刻から二刻、三時間近くもかかったといいます。
なぜ油を汲み出す必要があるのですか。
体表から染み出した粘り気のある油が甲板に大量に残るためです。汲み取らなければ船は沈没するとされました。油はフノリのような状態で、甲板がぬるぬるとなり歩きづらくなるといいます。
石燕の「あやかし」と同じものですか。
同じものと考えられています。石燕が『今昔百鬼拾遺』で描いた巨大な海蛇は、添え書きの内容がイクチの記録と一致するためです。ただし「あやかし」は海の怪異全般を指す総称で、イクチはそのうちの一つにあたります。
「いくじなし」の語源というのは本当ですか。
『耳袋』にそう記されている、というところまでが分かっていることです。江戸時代の書物に記された民間の語源説として受け取る必要があります。
イクチと併せて覚えたい言葉・用語
譚海(たんかい)
津村淙庵の随筆。常陸国の沖のイクチを記す。
耳袋(みみぶくろ)
根岸鎮衛の随筆。「いくじ」の名で伝える。
あやかし(あやかし)
海の怪異全般を指す総称。石燕はこの名でイクチを描いた。
フノリ(ふのり)
海藻から作る粘り気のある糊。イクチの油の状態に喩えられた。