死んだ馬の霊が人に憑き、馬のように振る舞わせて死に至らせるという怪異。

竹原春泉 「絵本百物語 塩の長司」 1841年 / パブリックドメイン 出典
馬憑きとはどんな妖怪か
馬憑きは、馬の霊が人に憑くという怪異です。
加賀に伝わります。憑かれた人は馬のように这い、草を食んだといいます。
多くは、馬を粗末に扱った者が馬の霊に取り憑かれ、馬のように振る舞い、最後には精神に異常をきたして死ぬというものです。
嘶いたり、桶から雑水を飲んだりします。周囲が悪ふざけだろうと思っていても、その挙動は馬そのもので、到底まねできるものではないとされます。
妖怪研究家の多田克己は、この背景に獣を殺すことへの戒めがあるとの説を述べています。
仏教国としての日本ではかつて、獣を殺したり獣肉を口にしたりすることは五戒に触れ、殺生を行なった者は地獄に堕ちるといわれていました。
馬憑きの漢字表記と読み方
読みは「うまつき」です。
「憑き」は、何かが人に取り憑くことを指します。狐憑き、犬神憑きなどと同じ言い方です。
ただし馬憑きは、生きている動物に憑かれるのではなく、殺された馬の霊に憑かれるという点が違います。
『絵本百物語』にある馬憑きの奇談は「塩の長司」と題されています。「塩の長次郎」とも呼ばれます。
これは加賀国の長者の名です。
話の題として広く知られているため、この名で憶えられていることも多くあります。
馬憑き(うまつき)
もっとも一般的な表記。
塩の長司(しおのちょうじ)
『絵本百物語』にある馬憑きの奇談の題。
塩の長次郎(しおのちょうじろう)
塩の長司の別の呼び方。
馬憑きの姿と特徴
馬憑きに、姿はありません。憑かれた人の振る舞いが、そのまま姿になります。
声 … 馬のように嘶く。
飲み方 … 桶から雑水を飲み干す。
目 … 目をむく。
動き … 馬そのもので、悪ふざけでは到底行えない。
最期 … 精神に異常をきたして死ぬ。
馬の霊そのものが見えたという話は、ほとんど伝わっていません。
見えるのは、人が馬のようになっていく様子だけです。
『因果物語』の話では、周囲の者は初めは悪ふざけだろうと思っていました。しかしその挙動は馬そのもので、到底悪ふざけで行えるものではないということになりました。
『絵本百物語』の「塩の長司」では、少し違います。
長司の夢の中に老馬が現れ、喉に食いつきました。以後、老馬を殺した時刻になると老馬の霊が現れ、口の中に入り込んで腹の中を荒らし回ったといいます。
死に様は、まるで重い荷物を背負った馬のような姿だったと記されます。
馬憑きの伝承物語
『因果物語』の二つの話
仏教説話集『因果物語』には、馬憑きの話が二つ載っています。
太郎助の話
江戸時代の三州中村、現在の愛知県田原市赤羽根に太郎助という男がいました。
彼は若い頃、馬同士の争いを止めようとして、誤って馬を殺してしまったことがありました。
その四十年以上も後、四十歳代半ばになった太郎助は突然、馬屋に入って馬のように鳴き、雑水を飲み干し、死んでしまったといいます。
四十年以上経ってから報いが来るという点が、この話の恐ろしさです。しかも、殺すつもりはありませんでした。
受泉の話
受泉法師の話 ─ 三州の記録
同じく三州の江村という地に住む受泉という法師は、若い頃に馬工郎、つまり馬を扱う仕事をしていました。
寛永十六年の春から突然、目をむいて嘶いたり、桶から雑水を飲んだりといった、馬のような挙動を始めます。
周囲の者は初めは悪ふざけだろうと思っていましたが、その挙動は馬そのものであり、到底悪ふざけで行えるものではないということになりました。
周囲が心配して見守る中、まもなく死んでしまいます。
周囲の人々は、法師でありながら若い頃の仕事の行いが悪かったため、生きながら畜生道へ堕ちたものだと話したといいます。
虐待した者への報い ─ 『新著聞集』の話
江戸時代の随筆『新著聞集』にも、馬憑きの話が載ります。
阿波の国主の話
阿波国、現在の徳島県の国主・松平阿波守が、あるとき飼い馬をひどく虐待したところ、馬は病気で死亡しました。
すると間もなく馬屋の者が叫び続けます。
殿様は馬を十分に飼い馴らすまで馬に乗らないと言っていたが、殿様は俺を偽り、責め立てて殺してしまった。この怨みはいつか晴らす。思い知れ
そして精神に異常を来たしたまま死んでしまいました。
馬を虐待したのは国主なのに、憑かれたのは馬屋の者です。
八王子の話
武蔵国八王子、現在の東京都八王子市では、原半左衛門という者が馬に焼印を押すことを非常に好んでいました。
灌太郎が元旦に倒れる
彼の息子・灌太郎がある年の元旦、従者と共に神社へ参拝に出かけたところ、鳥居の前でこう言い出します。
なんと馬の血が多い場所だ。祠の前まで血だらけで足の踏み場もない
従者の目には馬の血などどこにも見えません。しかし灌太郎は「血の海なのでこれ以上先へは進めない」と言い、鳥居の外で参拝を済ませて帰りました。
その日から灌太郎は病に侵され、馬の鳴き真似をするようになります。
七日後に正気に戻った灌太郎は「父が馬を苦しめ続けた報いで畜生道に堕ちる羽目になった、無念だ」と言いました。
その後に再び悶え苦しみ始め、ついに死んでしまったといいます。
ここでも、罪を犯した父ではなく、息子が報いを受けています。
塩の長司 ─ 『絵本百物語』の馬憑き
江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある馬憑きの奇談が「塩の長司」です。
加賀国、現在の石川県に、塩の長司という長者がいました。
彼は自宅に三百頭もの馬を飼っていましたが、常々悪食を好み、死んだ馬の肉を味噌漬けや塩漬けにして、毎日のように好んで食べていました。
馬肉が尽きたある日、長司は役に立たなくなった老馬を打ち殺して食べます。
その夜、長司の夢の中にその老馬が現れ、長司の喉に食いつきました。
その日から、長司が老馬を殺した時刻になると、長司のもとに老馬の霊が現れて口の中に入り込み、腹の中を荒らし回る日々が続きます。
その苦痛は相当なもので、長司は苦し紛れに悪口雑言し、自分が今までに仕出かした悪事やありとあらゆる戯言を吐き、苦しみ続けました。
祈祷も薬も効かない
医療や祈祷など様々な手段を試みましたが一向に効果はなく、百日ほど経ってついに死んでしまいます。
その死に様は、まるで重い荷物を背負った馬のような姿だったといいます。
『三州横山話』にも似た話があります。遠江国にハヤセの梅という男がいましたが、馬に憑かれて精神に異常を来たして以来、三河国に住み始めました。五十歳ほどで常に口から涎を垂らしており、馬の死の報せを聞くと、きまって自分の腕に食らいつき、その報せを追いかけたといいます。そのために彼の腕は常に赤く腫れ上がっていました。
なお『耳嚢』には、老いて役に立たなくなった馬を捨てて餓死させた家に馬の霊が祟り、追善供養をしたところ治ったという話も載ります。
馬憑きの伝承地域
馬憑きの話は、各地に散らばっています。
愛知県田原市赤羽根 … 『因果物語』の太郎助の話。
徳島県 … 『新著聞集』の阿波の国主の話。
東京都八王子市 … 『新著聞集』の原半左衛門と灌太郎の話。
静岡県西部から愛知県東部 … 『三州横山話』のハヤセの梅の話。
石川県 … 『絵本百物語』の塩の長司の話。
兵庫県姫路市 … 『耳嚢』の村田弥左衛門の娘の話。
これほど広い範囲に話があるため、この図鑑では一つの県に絞らず「全国」として扱います。
馬憑きを祀ったり鎮めたりする場所は確かめられませんでした。
旧三州中村(きゅうさんしゅうなかむら)
『因果物語』の太郎助の話の地
旧三州中村の所在地:愛知県田原市赤羽根
『因果物語』に載る、太郎助の話の舞台です。
若い頃に馬同士の争いを止めようとして誤って馬を殺した太郎助が、四十年以上も後に突然、馬屋で嘶いて雑水を飲み、死んでしまったと伝えられます。
同じ三州の江村には、法師の受泉が馬のような挙動を始めて死んだという話もあります。
当時の村域と現在の市域は一致しません。
馬憑きの正体と考えられているもの
馬憑きの正体については、次のように考えられています。
殺生への戒めとする見方が有力です。妖怪研究家の多田克己は、仏教国としての日本ではかつて、獣を殺したり獣肉を口にしたりすることは五戒に触れ、殺生を行なった者は地獄に堕ちるといわれた俗信が、これらの憑き物の伝承の背景にあるとの説を述べています。
畜生道に堕ちる話とする見方は、話そのものが述べています。『因果物語』の受泉の話では、周囲の人々が「生きながら畜生道へ堕ちたものだ」と話したと記されます。
馬を大切にする教えとする見方も成り立ちます。馬は農耕にも運搬にも欠かせない存在でした。粗末に扱えば報いがあるという話は、実際的な戒めとして働きます。
役に立たなくなった者を捨てることへの問いとする見方もあります。『耳嚢』の話では、馬の霊が「役立つ時は愛したのに、役立たなくなった途端に、このような不仁をする」と不満を述べています。
報いが本人以外に及ぶ点も注目されます。阿波の話では国主ではなく馬屋の者が、八王子の話では父ではなく息子が憑かれました。
追善供養によって治った例も伝わっています。恨みが晴らされれば止むという性質があります。
馬憑きをめぐる妖怪のつながり
馬憑きが登場する作品
馬憑きは、「塩の長司」という題で知られている面があります。
『絵本百物語』に収められたこの話は、三百頭の馬を飼いながらその肉を食べ続けた長者が、老馬の霊に苦しめられて死ぬというものです。
憑き物の話のなかでも、罪と報いの筋道がとりわけはっきりしています。
狐憑きや犬神憑きが家筋や土地に結び付くのに対し、馬憑きは個人の行いに対する報いとして語られます。この点が、ほかの憑き物と大きく違います。
馬憑きが登場する書物
因果物語
仏教説話集。太郎助と受泉、二つの馬憑きの話を収めます。
三州横山話
早川孝太郎の著。馬に憑かれたハヤセの梅の話を伝えます。
馬憑きが登場する小説
塩の長司
京極夏彦の作。巷説百物語の連作に収められています。
馬憑きが登場する漫画・アニメ
憑き物を扱う各種の作品
狐憑きや犬神憑きと並べて紹介されることがあります。
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。
馬憑きについてよくある質問
馬憑きとは何ですか。
死んだ馬の霊が人に取り憑いて苦しめるという怪異です。多くは、馬を粗末に扱った者が馬の霊に取り憑かれ、嘶いたり桶から雑水を飲んだりと馬のように振る舞い、最後には精神に異常をきたして死ぬというものです。
どの書物に載っていますか。
仏教説話集『因果物語』、江戸時代の随筆『新著聞集』、明治時代の民俗学者・早川孝太郎の『三州横山話』などです。『絵本百物語』の「塩の長司」もこの馬憑きの奇談です。
塩の長司とは何ですか。
『絵本百物語』にある馬憑きの奇談の題であり、その主人公である加賀国の長者の名です。三百頭の馬を飼いながらその肉を食べ続け、打ち殺した老馬の霊に百日ほど苦しめられて死んだと伝えられます。
なぜ馬なのですか。
仏教国としての日本ではかつて、獣を殺したり獣肉を口にしたりすることは五戒に触れ、殺生を行なった者は地獄に堕ちるといわれました。この俗信が背景にあるとの説を、妖怪研究家の多田克己が述べています。
治った例はありますか。
あります。『耳嚢』の話では、老いた馬を捨てて餓死させた家の娘に馬の霊が憑きましたが、恨みの中身を聞いて追善供養をしたところ、娘の病気は治ったといいます。
馬憑きと併せて覚えたい言葉・用語
因果物語(いんがものがたり)
仏教説話集。馬憑きの話を二つ収める。
塩の長司(しおのちょうじ)
『絵本百物語』にある馬憑きの奇談。加賀国の長者の名でもある。
畜生道(ちくしょうどう)
獣として生まれ変わる境涯。馬憑きは生きながらそこへ堕ちる話とされた。
五戒(ごかい)
仏教の基本の戒め。殺生を禁じる項目を含む。