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ヨゲンノトリとはどんな妖怪か|姿と伝承・登場する作品・伝承地域

ヨゲンノトリ  / ヨゲンノトリ

予言獣鳥の妖怪 各地の伝説

幕末の甲斐の記録に描かれた双頭の鳥。疫病の流行を予言したとされる。

ヨゲンノトリの姿を描いた図

Alpsdake 「白山(石川県・岐阜県)」 2025年 / CC0 出典

ヨゲンノトリとはどんな妖怪か

ヨゲンノトリは、頭が二つある予言の鳥です。

疫病の流行を告げ、自分の姿を朝夕に拝めば助かると言い残しました。

甲斐国市川村、現在の山梨市の名主・喜左衛門が、コレラの流行を記録した『暴瀉病流行日記』に描かれています。

そこには「図のようなカラス」と記され、その下に頭部が二つあり、一方が黒く一方が白い鳥の絵が描かれています。胴体と脚とくちばしは黒です。

この鳥は加賀国の白山に現れ、次のように告げたと記されます。

来年の八、九月のころ、世の中の人が九割方死ぬという難が起きる。わが姿を朝夕に敬い信じる者は、必ず難を逃れるだろう

この鳥に名前は書かれていません。「ヨゲンノトリ」は、後の世に付けられた呼び名です。

ヨゲンノトリの漢字表記と読み方

読みは「ヨゲンノトリ」です。「予言の鳥」を片仮名で書いたものです。

この呼び名は、2020年に付けられました。

『暴瀉病流行日記』には、この鳥に名前が書かれていません。「熊野七社大権現御神武の烏」と言われていたと記されるのみです。

二〇一四年、山梨県立博物館が企画展「幽霊・妖怪画大全集」とあわせて「やまなしの幽霊・妖怪」展を開催しました。

そこで『暴瀉病流行日記』を展示した際に、当時在籍していた同博物館の非常勤職員が、この絵の鳥に「ヨゲンノトリ」と名付けて紹介したのです。

名が付いてから十年ほどしか経っていない、たいへん新しい呼び名です。

同じころの別の記録では「両頭の烏」「両頭白首の烏」と記されており、そちらにも名前はありません。

ヨゲンノトリ(よげんのとり)

二〇一四年に付けられた通称。

両頭の烏(りょうとうのからす)

『安政雑記』での記され方。

両頭白首の烏(りょうとうはくしゅのからす)

『鶏肋集』での記され方。

ヨゲンノトリの姿と特徴

ヨゲンノトリの姿は、絵として残っています。

… 二つある。一方が黒く、一方が白い。
胴体・脚 … 黒。
くちばし … 双方の頭とも黒。
全体 … カラスのような鳥。

『暴瀉病流行日記』には「如図なる烏」、つまり「図のようなカラス」と記され、その下部にこの絵が描かれています。

同じ時期の類例では、姿が少しずつ違います。

『安政雑記』の「両頭の烏」 … 『暴瀉病流行日記』より細い体形で、頭部はくちばしを含め二つとも白い。

『鶏肋集』の「両頭白首の烏」 … くちばしを含め頭部は二つとも白く、胴や脚は黒い。体形は前の二つに比べて丸みを帯びている。

三つの記録で、頭の色と体形がそれぞれ違います。

これは同じ噂が場所を移るうちに変わっていったことを示すものと考えられています。

ヨゲンノトリの伝承物語

  1. 安政五年、甲府にコレラが来る
  2. 世の中の人が九割方死ぬ ─ 鳥の告げ
  3. 江戸と名古屋にも同じ噂が立つ
  4. 尾張藩士が書きとめる ─ 風説の記録
  5. 伝言のように変わっていく噂
  6. 頭が二つになるまで ─ 姿が育つ

安政五年、甲府にコレラが来る

『暴瀉病流行日記』は、甲斐国市川村、現在の山梨市の名主・喜左衛門が書き残した記録です。

「暴瀉病」とはコレラのことです。

同書によれば、安政五年、一八五八年の七月二十五・二十六日頃から、甲府の市中でコレラが流行し始めました。

医者は休む暇がなく、祈祷も効き目がなかったと記されています。

その記述に続いて、次のような話が書かれます。

「図のようなカラス」が、去年、つまり安政四年の十二月に、加賀国、現在の石川県の白山に現れた。そしてこう言った。

世の中の人が九割方死ぬ ─ 鳥の告げ

来年の八、九月のころ、世の中の人が九割方死ぬという難が起きる。わが姿を朝夕に敬い信じる者は、必ず難を逃れるだろう

そして、この鳥について「熊野七社大権現御神武の烏」と言われていたと記されています。

予言と、その難を逃れる方法とが、対になっています。

姿を敬い信じれば助かる。つまり、この絵を写して手元に置けばよいということになります。

疫病のさなかに、こうした絵が広まりました。

江戸と名古屋にも同じ噂が立つ

ヨゲンノトリの話は、甲斐だけのものではありませんでした。

『安政雑記』の「両頭の烏」

上野国沼田藩の剣術指南役・藤川整斎が、江戸の風説などを書き留めた記録です。

前後の記載内容から、安政四年、一八五七年六月頃の話とみられます。

加賀国白山に「両頭の烏」が現れて「世の人九分死ぬ難あり」と言い、自分の姿を朝夕に見れば難を逃れられると告げたとされます。熊野権現の使いである、とも告げたといいます。

『鶏肋集』の「両頭白首の烏」

尾張藩士が書きとめる ─ 風説の記録

尾張藩士・安井重遠が、幕末の名古屋における風説などを書き留めた記録です。

安政四年五月のこととして、加賀国白山に現れ「世の人九分死するの難あり」と言い、「自分の姿を朝夕に見れば難を逃れられる、これは熊野権現のお告げである」と述べたとされます。

三つの記録で、内容はほぼ同じです。

現れた場所は白山、告げた中身は「世の人が九分死ぬ」、逃れる方法は「姿を朝夕に見る」。

そして、いずれにも名前は記されていません。

伝言のように変わっていく噂

三つの記録を並べると、時期の順序が見えてきます。

安政四年五月 … 名古屋の『鶏肋集』
安政四年六月頃 … 江戸の『安政雑記』
安政五年七月以降 … 甲斐の『暴瀉病流行日記』

そして、姿が少しずつ違います。

『鶏肋集』と『安政雑記』では頭が二つとも白いのに対し、『暴瀉病流行日記』では一方が黒く一方が白くなっています。

体形も、丸みを帯びたものから細いものへ、さらに別の形へと変わっています。

石川県立図書館史料編さん室の主幹は、「流行前に江戸市中に鳥の風説が広がっていたとみられ」、「江戸から甲斐国に伝わる間に、伝言ゲームのように変わったのでは」と指摘しています。

頭が二つになるまで ─ 姿が育つ

つまりヨゲンノトリの絵は、噂が伝わるうちに姿を変えていったものと考えられます。

もう一つ重要なのは、予言が実際に当たったように見えることです。

鳥が現れたとされるのは安政四年、コレラが甲府で流行したのは安政五年七月末。噂が先にあり、疫病が後から来ました。

そのため、この鳥の絵は「効くもの」として受け取られました。

なお『暴瀉病流行日記』そのものは、かねてより幕末の甲斐の社会や民俗を物語る史料と位置付けられ、博物館で何度も展示されてきたものです。

ヨゲンノトリの伝承地域

ヨゲンノトリにゆかりの地は、二つに分かれます。

現れたとされる場所は、加賀国の白山です。三つの記録がそろって白山としています。ただし白山の側に、この鳥を目撃したとする記録は残っていません。

記録が残った場所は、山梨県山梨市の旧市川村です。名主・喜左衛門の『暴瀉病流行日記』にこの絵と話が記され、現在は山梨県立博物館が所蔵しています。

噂の出どころとされる土地と、記録が残った土地が離れているのが、この鳥の特徴です。

祀られている場所は確かめられませんでした。

白山(はくさん)

鳥が現れたと記された山

地図で開く

白山の所在地:石川県・岐阜県

三つの記録がそろって、この鳥が現れた場所を加賀国の白山としています。

『暴瀉病流行日記』では安政四年十二月、『安政雑記』では安政四年六月頃、『鶏肋集』では安政四年五月のこととされます。

噂が生まれた土地としては白山が語られ、記録が残ったのは名古屋・江戸・甲斐でした。

現れた地点を示すものはありません。

白山で目撃されたとする記録そのものは残っていません。

旧市川村(きゅういちかわむら)

『暴瀉病流行日記』が書かれた地

地図で開く

旧市川村の所在地:山梨県山梨市

名主・喜左衛門が『暴瀉病流行日記』を書き残した土地です。

安政五年七月末から甲府の市中でコレラが流行し、その様子とともにこの鳥の話が記録されました。

ヨゲンノトリの絵が残ったのは、この記録があったからです。

当時の村域と現在の市域は一致しません。

ヨゲンノトリの正体と考えられているもの

ヨゲンノトリの正体については、次のように考えられています。

噂が形になったものとする見方が基本です。安政四年五月の名古屋、六月の江戸、そして安政五年の甲斐と、同じ内容の話が時期をずらして記録されています。姿が少しずつ違うことから、伝わるうちに変わっていったとみられます。

熊野権現の使いとする見方は、記録そのものが述べているものです。『暴瀉病流行日記』は「熊野七社大権現御神武の烏」と言われていたと記し、ほかの二書も熊野権現のお告げであるとします。

疫病除けの絵とする見方も重要です。姿を朝夕に見れば難を逃れられるという形は、絵そのものが守りになることを意味します。同じ時期に注目を集めたアマビエと同じ性質です。

予言が当たったように見えたことが、この鳥を広めました。噂が先で、コレラの流行が後だったためです。

名前は伝わっていません。 「ヨゲンノトリ」という呼び名は二〇一四年に博物館の職員が付けたもので、江戸時代の記録にこの名はありません。この点は、はっきりさせておくべきところです。

ヨゲンノトリをめぐる妖怪のつながり

ヨゲンノトリが登場する作品

ヨゲンノトリは、近年になって広く知られるようになった存在です。

もとは『暴瀉病流行日記』という一つの記録に描かれた、名も無い鳥でした。

二〇一四年の企画展で名が付き、二〇二〇年四月に山梨県立博物館の学芸員がその画像を交流サイトに投稿したことで、大きな反響を呼びました。

同じ頃、疫病除けとしてアマビエが注目を集めていたことも重なりました。

古い記録が、時を隔てて同じ役割を果たすことになった例です。

ヨゲンノトリが登場する書物

暴瀉病流行日記

甲斐国市川村の名主・喜左衛門の記録。ヨゲンノトリの絵と話を伝えます。

安政雑記

藤川整斎が江戸の風説を書き留めたもの。「両頭の烏」を記します。

鶏肋集

安井重遠が名古屋の風説を書き留めたもの。「両頭白首の烏」を記します。

ヨゲンノトリが登場するそのほか

やまなしの幽霊・妖怪

二〇一四年の企画展。ここで「ヨゲンノトリ」の名が付けられました。

ヨゲンノトリが登場する漫画・アニメ

予言獣を扱う各種の作品

アマビエやクダンと並べて紹介されることが増えました。

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ヨゲンノトリについてよくある質問

ヨゲンノトリとは何ですか。

江戸時代の末にコレラの流行を予言したとされる、頭が二つある鳥です。甲斐国市川村の名主・喜左衛門が書いた『暴瀉病流行日記』に絵とともに記されています。

何と予言したのですか。

加賀国の白山に現れ、「来年の八、九月のころ、世の中の人が九割方死ぬという難が起きる。わが姿を朝夕に敬い信じる者は、必ず難を逃れるだろう」と告げたと記されます。

「ヨゲンノトリ」という名は古いものですか。

いいえ。江戸時代の記録に名前は書かれていません。二〇一四年に山梨県立博物館の企画展で展示された際、当時在籍していた非常勤職員が付けた通称です。

ほかにも同じ鳥の記録がありますか。

あります。江戸の風説を記した『安政雑記』の「両頭の烏」、名古屋の風説を記した『鶏肋集』の「両頭白首の烏」です。いずれも加賀国白山に現れ、同じ内容を告げたとされます。

なぜ姿が記録ごとに違うのですか。

噂が伝わるうちに変わったためとみられます。名古屋・江戸の記録では頭が二つとも白いのに対し、甲斐の記録では一方が黒く一方が白くなっています。

ヨゲンノトリと併せて覚えたい言葉・用語

暴瀉病(ぼうしゃびょう)

コレラのこと。安政五年に甲府の市中で流行した。

暴瀉病流行日記(ぼうしゃびょうりゅうこうにっき)

甲斐国市川村の名主・喜左衛門の記録。ヨゲンノトリの絵を伝える。

白山(はくさん)

加賀国の山。三つの記録がそろって、鳥が現れた場所とする。

予言獣(よげんじゅう)

疫病や凶事を告げ、自らの姿を守りとして示す獣や鳥の総称。