四つ目の面をかぶり、戈と楯で疫鬼を追い払う役。のちに追われる側になった。

鳥山石燕 「今昔百鬼拾遺 方相氏」 1781年 / パブリックドメイン 出典
方相氏とはどんな妖怪か
方相氏の漢字表記と読み方
読みは「ほうそうし」です。
「方相」は四方を見張るという意味に解されます。四つの目を持つのは、そのためとされます。
この図鑑の魍魎の項では、『周礼』に「戈を執って壙に入り、方良(罔両)を駆逐する」とあると記しました。
その戈を執る者が、方相氏です。
方相氏(ほうそうし)
石燕の絵に添えられた表記。
大儺(たいな)
方相氏の別称。侲子は小儺と称されました。
方相氏の姿と特徴
石燕の絵の方相氏は、戈を持って身構える姿です。
面 … 4つの目をもつ四角い面。
右手 … 戈(ほこ)。
左手 … 大きな楯。
身につけるもの … 熊の皮。
足もと … 白い脚絆に沓。
絵では、朱塗りの欄干の下、雲を踏むように立っています。
方相氏が登場する古典の物語
鬼を追い出す
中国で行われていた儀式では、皇帝らの前で方相氏と数おおくの侲子たちによって、疫鬼たちを恐れさせる内容の舞がおこなわれました。
その後、鬼たちを内裏の門から追い出して都の外へと払います。
侲子たちは黒い衣服をまとっており、子供たちがその役をつとめました。
日本では、儺人が桃と葦でつくられた弓と矢をもち、方相氏・侲子たちは内裏を回ります。
陰陽師が鬼に対して供物を捧げ、祭文を読み上げました。
追われる側になる
ところが、平安時代には変化が起きます。
鬼たちに対して用いられる役割を持っていた桃と葦の弓矢を、方相氏・侲子たちに向かって使っていた描写が、年代が進むにつれて見られるようになりました。
彼ら自身が、儀式のなかで鬼を示す役割に変化していったと見られています。
鬼を追う者が、鬼として追われるようになりました。
石燕が『今昔百鬼拾遺』に加えたのも、この経過があってのこととみられます。
節分の豆まきへ
宮中行事であった追儺は、節分の豆まきなどの原形のひとつとも考えられています。
ただし豆まきについては、日本での追儺の儀式には組み込まれていません。鬼を打ち払う他の行事から、後の時代に流入したものです。
追儺は鬼ごっこ(鬼事)の起源ともされます。
柳田國男は、伝統的な子供の遊戯は大人の真似によって生じたものとし、もとは神の功績を称える演劇を子供が真似たという説を唱えました。
この図鑑には、鬼の項として鬼も収めています。
方相氏の伝承地域
方相氏をまつる社は見当たりません。追儺は宮中で行われた行事です。
現在も各地の社寺で追儺式が行われており、鬼を追う所作が受け継がれています。
方相氏の正体と考えられているもの
方相氏は、役目の名です。一体の妖怪の名としては立てられていません。
それでも石燕が妖怪画集に描いたのは、追われる側に回ったからとみられます。
中国では、宋の時代には方相氏たちによる舞は失われ、武人や鍾馗などが儀式に登場するようになりました。
日本の文献では『続日本紀』の慶雲3年(706年)十二月晦日の記事が古いものとして知られます。
疫病で多くの人が死んだため、土牛を作って大儺を行ったという内容です。
方相氏が登場する作品
方相氏は、石燕の絵と追儺の記録で読めます。
現在も各地の社寺で追儺式が行われており、鬼を追う所作を見ることができます。節分の豆まきと合わせて見ると、由来のたどり方が見えてきます。
方相氏が登場する古典
周礼
中国の礼制の書。戈を執って墓穴に入り、罔両を駆逐すると記します。
方相氏が登場する研究
鬼ごっこの起源をめぐる研究
柳田國男の説と、多田道太郎による反対論があります。
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。
方相氏についてよくある質問
方相氏とは何ですか。
追儺(大晦日に疫鬼を払う儀式)で、鬼を追い払う役をつとめる者です。
どんな姿ですか。
4つの目をもつ四角い面をつけ、右手に戈、左手に大きな楯を持ち、熊の皮をかぶるとされます。
なぜ妖怪画集にあるのですか。
平安時代以降、方相氏自身が儀式のなかで鬼を示す役割に変化していったためとみられます。
節分と関係がありますか。
追儺は豆まきの原形のひとつとされます。ただし豆まき自体は後の時代に流入したものです。
方相氏と併せて覚えたい言葉・用語
追儺(ついな)
大晦日に疫鬼や疫神を払う儀式。鬼遣とも呼ばれます。
侲子(しんし)
方相氏に従う子供たち。黒い衣服をまといました。
戈(ほこ)
長い柄の武器。方相氏が右手に持ちます。